そして恋がはじまってゆく
※原作単行本28巻のおまけ漫画を膨らませた話ですので、そちらを踏まえてお読みいただけると嬉しいです。







 冬の時期特有の乾いた風を正面に受け、良介は身震いした。寒い。思わず声が溢れる。吐いた息は白く煙のように漂い、すぐに透明な空気に馴染んで消えた。クリーム色の装丁の、分厚い楽譜を右手に持ち、左手でぐるりとマフラーを巻く。押し込められた襟足の髪を外側へ逃がして、整える。

「…寒っ」


 彼はちっとも悪くなかった。楽譜を置き忘れたのはなのだ。先日碇屋家へレッスンに来たとき、譜面台の横に置き去りにされたパデレフスキ版のそれを母が見つけ、良介に返しに行くよう託した。
 小学生の頃からそうだった。は一度にたくさんのことをし出すと、最初にやっていたことをつい忘れてしまう。今回もたくさんの課題曲に追われていたのだろう。彼女の楽譜には、鉛筆で何箇所もしるしや注意事項が書き込まれていた。いつ見ても、隅々まできちんと思い出せるように。


 何度も忘れものを返しに行くうち、良介はすっかりの家までの道順を覚えてしまった。小学校を通り過ぎてすぐにある閑静な住宅街の交差点のかどの、大きな二階建ての家。呼鈴と書かれた小さなボタンを押すと、玄関先まで届いていた快活なピアノの音が、ぴたりと止んだ。粒の揃った高音の、光り輝く水しぶきのような華やかさ。ショパンのエチュードだった。

「…はい」
「おい、開けろ」

 は最初こそ警戒した声色だったが、インターフォン越しの彼の声に気づき、直ぐに玄関の扉を開けた。膝丈のゆったりとしたワンピースの部屋着に、上着も羽織らず良介を迎える。の私服を見るのはだいぶ久しぶりだったので、良介は少しどぎまぎした。


「急にどうしたの?」
「どうしたのじゃねーよ。忘れ物大王が」

 手に持っている楽譜を見て、があっと驚いた。急いで受け取ると表紙の裏の記名を確認して、ほっと胸を撫で下ろした。

「これ、探してたの! 本当にありがとう」
「いい加減学習しろ」
「…ごめんなさい」

 楽譜を下駄箱の上に置き、苦笑いをしながら両手を合わせて軽く頭を傾けた。あまり悪びれる様子の感じられない仕草に、呆れてため息をつく。(俺はいつも彼女にいいように振り回されている気がする…)とさえ思った。でもどうしてなのか、それでもいいと思っている部分も少なからず在った。


「これもやる」

 楽譜と一緒に持ってきた小さな紙袋を、袋ごとに押しつける。慌てて受け取ったは、がさがさと音を立てて中を覗いた。申し訳なさそうな表情が一転、満面の笑みに変わる。

「わっ、ありがとう」

 袋の中には東京ばな奈が入っていた。パッケージにはフューシャピンクのリボンがプリントされ、東京ばな奈ツリーと書いてある。すこし間があって、はこの「ツリー」が、東京スカイツリーのそれであることを察した。彼はあの名所へ行ったのだ。そして限定の、この豹柄のスポンジケーキをお土産に買ってきた。は、展望室からの景色に興奮する姿や、ぶつぶつひとりごとを言いながらお土産を選ぶ姿、購入に至るまでの彼のさまざまな挙動を思い浮かべた。いま目の前で馬鹿だとか忘れん坊だとか言って悪態を吐くこの男が、わたしのために。それはとても不釣り合いで、とても愛おしかった。

「東京、行ったの?」
「選手権だった」
「選手権?」
「梁山のな。まあ負けたけど」
「そっか…」


 も良介も、これまでに幾度も敗北を味わう場面はあった。それなのに、今回ばかりは今までとは違う意味合いがあるように感じられた。彼の高校サッカーの終わり。ふたりは、ジャンルこそ違えど普段は地道な、一見すると地味な練習を飽きるほど反復してきた。わずかな一瞬の輝きのため、なにひとつ妥協せずに、ただひたすらに努力しつづけた。そんな高校生活の最後に、良介は負けた。だれに? どこの学校に? どうして?──の胸の中で、湧き水のように疑問が溢れていった。それでも訊ねることはできなかった。訊ねたらいけないような気がしたのだ。


「負けたから観光もできたわけだし、悔いはねえよ」

 が、目を逸らしてはぐらかす良介の顔を覗き込む。「あ?」と言って威嚇され、いつもの良介くんだと微笑んだ。なんでもないふうに振る舞う彼を以前よりもずっと頼もしく、逞しく感じた。今やU-18日本代表の花形として国民の期待を背負いプレーする彼には、立ち止まっている時間など無いのだった。


「良介くんはプロになるんでしょ?」
「なるに決まってんだろ」
「横浜なんだよね?」
「それがどうした」
「わたし、東京の音大に行くことにしたの」

 突然の報告に、良介は抑揚のない返事をした。さほど驚かなかったのは、母親からそれとなく話を聞いていたからだ。けれども、目だけは優しい色をしていた。関西から関東へと拠点を移しても、互いがやっぱり離れられないのだということに安心しているようだった。

「東京行ったら、試合見に来いよ」
「えっ」
「来れるだろ。いいもん見せてやる」

 スタジアムの観客の地鳴りのような声援、高らかなホイッスルの音、鮮やかな芝の緑。相手陣地の密集地帯をレガテで抜き去り、左足を振り抜く。突き刺さるシュートに、揺れるゴールネット。喜びに駆け寄るチームメイト、轟々と湧く歓声。ぜんぶぜんぶ、に見せてやりたい。

 良介は切なげに眉を下げたの手を掴んで、加減など分からないまま、力いっぱい抱き寄せた。自分のよりもひとまわり小さい深爪のその手は、ふっくらとしていて柔らかかった。


「お前に、見せたい景色がある」

 は全身を硬直させ、良介を呼んだ。糸のようなその声に返事はなかった。
 静まり返った玄関で、片手に握った紙袋の擦れる音だけが妙にはっきりと聞こえた。そういえば、触れられたのははじめてだ。緊張とうれしさとで汗ばんだ手のひらを、そうっと背中へ回す。ブレザーの上から触れた彼のからだは、どうしようもなく熱かった。







F.Chopin: Etudes Op.10-5
東京ばな奈ツリー チョコバナナ味、「見ぃつけたっ」
2019.03.26