漸近線の淵
※キメツ学園設定







 あこがれなんていうものは、ほんの些細なきっかけで簡単にこわれてしまうものだ。たとえばそれが脅威となったとき、怒りや憎しみに変わったとき、或いは恋だと自覚したとき。あこがれは一瞬にして、欲望へと成り代わる。そうして淡く色づいていたものは、すこしずつ濃く、黒く、滲んでゆく。

 わたしだけのものになりますように。




 放課後の校内はさまざまなにおいがする。廊下や教室の黴くさく埃っぽいにおい、美術室やその周辺に蓄積され染みこんだ絵具や墨汁のにおい、更衣室に置き去りにされた体操着の汗のにおいと、スカートのなかの日向水のようなにおい。それから、先生のいる数学準備室に充満したコーヒーのにおい。

 この学園に数学の先生は何人かいるのだけれど、どの先生も教室と職員室を往復するばかりで、不死川先生以外に準備室を使う先生はいない。だから、わたしは数学準備室の前を通るとき、いつも極力足音をたてないようにして、しずかに、ゆっくり歩く。建てつけの悪い扉の隙間から、かすかなコーヒーの香ばしいにおいが漂ってくるのを楽しみにしながら。



 廊下で一度深呼吸して、扉をノックする。ゆがんだ引戸を強引に開けて覗きこんでみれば、先生はいちばん奥の事務机に座って、課題の採点をしていた。

「遅ェ」
「すみません」

 わたしは手に持っていたプリントを先生の前に突き出した。先週の時点ですでに提出し終えていなければならないそれを、先生は鋭い目つきで睨んだあと、今週の分だと言って新たなプリントをわたしに差し出した。

「もう遅れんじゃねェぞ」
「はい」
「いくらテストの成績が良くても、こういう基本的な部分が出来ねェと内申に響くからなァ」

 先生は褒めているのか脅しているのかわからないようなことを、さっきよりもやさしい口調で諭すように言って、ふたたび赤いペンを走らせた。広く開いたシャツの襟から、薄らと鎖骨の線が見えた。


「先生、この課題、ここで済ませていってもいいですか」

 家に持ち帰ったら、また忘れてしまいそうで心配なんです。
 そう言うと、先生はなにか考えているようなむずかしい顔をしてわたしのほうをじっとりと見詰め、それから「好きにしろ」と言った。



 先生のとなりの、誰にも使われていない灰色の事務机にプリントを広げ、はじめにクラスと氏名を書く。小テストのような形式の課題は、プリントの左上から順に、計算問題、関数、証明とつづいている。証明は解くのに時間がかかりそうだと判断して、設問の順番どおり、計算問題から解いてゆくことにする。そうして解いてゆく毎に、高鳴る鼓動を抑え、隠しながら、横目で先生の姿を確認する。先生はあいかわらず規則的なリズムで、なめらかに赤い丸を描いている。


「あの、先生、ちょっとわからないところが……」


 瞬間、先生の手が止まる。関数の問題のところでつまずいてしまったわたしを見て、先生は「このまえ授業でやったろォ」と、あからさまに不機嫌な顔をして見せた。それでも根がやさしい先生は、目の前でぴたりと固まったまま首を傾げ、困っている生徒を見過ごすことができないらしく、安物の事務椅子のキャスターを軋ませ、わたしのプリントへ手を伸ばした。

「この曲線の場合は、まずこの式を変形して極限を求める。極限値がありゃそれをaとして、極限がなければ……」

 わたしの顔のすぐ横に、先生の顔が並ぶ。先生の膝が机の引き出しのところに当たって、マグカップのなかの黒いコーヒーが、さざなみのように細かく揺れる。なにかひとことでも話すたび、ふわりと漂うコーヒーの苦みのあるにおいに、わたしの心が激しく躍る。全身に血のめぐる音がおおげさにひびいて、それと同時に、わたしはペンを握り締めたまま、ひどく不埒なことを考えた。いま先生のほうを振り返ったら、きっとふたりの鼻先は、触れてしまいそうなほど近いのに違いない。もしそのままわたしが顔を寄せて、くちびるを付けたなら、先生はどんな反応をするだろう? 驚いて、わたしのことを罵倒し、突き放すだろうか。頭を撫でて、何もなかったふうにつづきを教えてくれるだろうか。それとも、照れくさそうにほほ笑んで、もう一度、今度は先生のほうから、くちびるに触れてくれるだろうか。

 考えただけで頭のなかが先生でいっぱいになって、耳に届く先生のことばの子音だけが妙に強調されたように聞こえてきて、その息づかいが、ことばとして形成される前のいきおいよく吐き出された空気が、わたしのからだの内側を震えさせ、とたんに、ほかのことなんてなにひとつ満足にできなくなってしまう。


「……オイ、聞いてんのか」
「すみません、聞いてませんでした」
「この距離で喋ってんのにかァ?」
「ごめんなさい」

 耳が燃えるように熱い。先生が、わたしの顔を不思議そうに覗きこむ。目があう。注がれる視線に堪えきれず、わたしは反射的に顔を逸らし、うつむいた。いま先生の目をまじまじと見つめたら、たぶんわたしは、泣いてしまう。


、お前体調でも悪いのか?」
「……悪いって言ったら、どうしてくれますか」


 保健室まで抱えてくれますか。
 それとも、先生の車で、家まで送ってくれますか。

 わたしの浅はかな思考のなかに、陳腐な愛の問、自分勝手に作りあげた未来のふたりの虚像が、あぶくのように浮かんでは消えてゆく。ペンを握る手は小刻みに震え、汗が吹き出し、力が入っているのかさえわからない。


 先生、知っていますか? わたしが先週の課題を敢えて提出しなかった理由。今日ここで、先生のとなりでプリントを広げた理由。解けないふりをして、漸近線の求め方を訊ねた理由。

 先生は、気づいていますか?


「携帯、貸せ」
「え?」
「携帯あんだろ。親御さんに連絡してやる」

 おおきな手のひらをわたしへ見せて、ひらひらとなびかせた先生は、わたしが望んだどの答も与えてはくれなかった。先生はわたしにとってたったひとりの、絶対的な存在であるのに、わたしは先生にとって、大勢いる生徒のうちのひとりに過ぎないのだ。
 あまりに明確な答は、かえってわたしを苛立たせた。


「大丈夫です、もう治りました」
「そんなに早く治るわけねェよ」

 わたしは先生のほうを見向きもせず、がさがさとサブバッグを漁り、常時生理用のナプキンや薬を入れて持ち歩いているちいさな巾着袋を取り出した。そこから生理痛のための錠剤を二粒口へ放り、先生のコーヒーで流しこんだ。先生はなにも言わず、きまり悪そうに頭を掻きながら、ただただ黙ってわたしを見ていた。


「わたし、もう帰ります。今日はありがとうございました」



 先生、わたし、知りませんでした。あなたを好きになることが、こんなにも熱く、苦しく、狂おしいことだったなんて。


 固い扉を押し退け廊下に出たとき、ようやくまともに呼吸できるような気がして、胸いっぱいに空気を吸いこんでみたけれど、コーヒーの苦さだけがいつまでも喉の奥に貼りついて、それがよけいに、わたしをかなしい気持ちにさせた。







2020.05.21