落椿、白の上の白







 季節外れの雪だと、彼は思う。
 竹穂垣には、降り積もる雪がまるで雪柳のように真っ白な小さな花を穂先へ貼り付け、或いは銀色に光る芒のようにも見え、その下の低い石垣は、さめざめと頬を濡らしている。

 垣根に沿って、白く化粧の施された道を辿り、帰路に就く。昼間だと言うのに空は色彩を失ったように鈍い灰色をして、分厚い雲に覆われ、太陽はすっかりその身を隠している。
 晴れた日には乾いた空気を揺らし響き渡る鳥たちの囀りも、今は何もない。



 裏木戸を開け、白に塗り潰された庭を見渡す。瓢箪のような形をした池の水面だけが深淵のように暗く、梢枝を大きく広げた欅の樹がその傍らに寂しげに佇み、忍び入る主人の帰還に歓迎の声はなく、ただ寂寥の白を踏み締める。

 ふと、雪の上の足跡が目に留まる。
 輪廓はくっきりとして、時間の経過が浅いことを彼に知らせる。自分のそれよりもひと回りほど小さい下駄の跡は、外縁の沓脱石から始まり、表木戸の隣りに植えられた椿の前まで一直線を描き、そこで少し停滞し、井戸の方へとつづいている。
 開け放たれた明障子と、その向こうの八畳の間、蛻の殻となった真綿の布団を一瞥して、彼は眉根を寄せ、足跡を追う。



 は、井戸端で手を洗っていた。彼の心配など露知らず、悴んだ指先を桶に浸し、両手を軽く揉んで、着物の前でさっと拭う。
 寝巻のままの姿が寒々しく、彼は余計に顔を顰める。


「お帰りなさい」


 拭いながら、が言う。彼は黙って、の足元──下駄の刃に雪が溜まり、固まっているのを見詰める。雪解けの水が、足袋をぐずぐずに濡らしている。


「お前はもう暫く蝶屋敷へ預けておくべきだった」
「今さら仰っても無駄です。わたしを此処へ戻したのは、貴方なんですから」
「安静にしていろと言ったはずだ」
「義勇さん、もしかして、怒っているのですか?」
「俺はお前の話をしている」


 窓から見えた椿が、綺麗だと思ったんです。

 が視線を下げる。手折った椿が一輪、井戸蓋の上に添えられている。
 彼は、足跡のあった椿の樹を思い出す。既に花は落ち、茶色に萎びた花弁が今にも溶け出しそうに、雪に埋もれ、腐り始めていた。
 彼女が手折ったのは、最後の一輪だったのだろうか。


「いちばん綺麗なのを、貴方にお見せしたくて」


 紅い椿が、彼の方へ向いて優美な花弁を広げている。彼は顔を歪めたまま、近づいて、降り積もる雪とともに手で払い退け、地に落とした。

 白の上の紅が、よく映えた。


「首から落ちる花は、縁起が悪い」
「それでしたら、この椿を鬼だと思えば良いのです」
「花のように美しい鬼など居ない」


 彼はの肩へ羽織を掛けてやり、長い息を吐いた。吐いた息は白煙のように、透明な大気を掻き分け、果敢無く消えた。


「あまり俺を困らせるな」


 困らせるつもりはないのだと、力なく笑うを、彼は軽々と横抱きにした。

 日々の鍛錬と繰り返される過酷な任務に、剣術の腕や敏捷性は申し分ない程にまで向上したものの、身体は華奢なままだった。加えて前回の任務で深傷を負い、蝶屋敷に運ばれ、数日間、死の淵を彷徨った。蟲柱の尽力により、奇跡的にも意識を取り戻し、連れ帰ったは、なお青白く痩せていた。



 外気に晒され冷え切った布団の上へ降ろしてやると、は背中の後ろへ手をついて、上目を遣い、寝かしつけようとする彼を、じっとりと見詰めた。
 崩れた寝巻の裾から、細く白い足が覗いている。薄氷のように透き通った滑らかな肌、その下に、生温かい血が通っているのがぼんやり見える。末端に行くにつれ、それらは細かく枝分かれし、やがて肌の色に滲んで、見えなくなってゆく。


「生けるのなら、白木蓮がいい」


 雪に濡れた足袋を脱がしてやると、水気を含み、ぷっくりと薔薇色に膨らんだ指が、拇から小指へ、美しいまでの秩序をもって、慎ましく並んでいた。


「白木蓮ですか」
「ああ」
「こんな雪の日に、白い花だなんて……」


 彼が俯き、の左の踵を掴み、持ち上げる。薄い皮膚に包まれた歪な骨の形が、手に取るように分かる。


「白の上の白というのも、悪くない」


 の、すべすべと冷たく尖った踝に、彼の唇が触れる。その下の僅かな窪みに、柔らかな舌が這う。甲の外側を、緩やかに伝う。そうしての小指、寒さのために白く濁った貝殻のような爪の先を、丁寧に舐め、味わい、口に含む。彼女の肩に辛うじて引っかかっていた羽織は、肩口を撫でるように、するりと滑り落ちる。堪らず後ろへ弓なりに、布団へ背を預けると、追い掛けるように影が重なり、彼の骨ばった手が、微かな衣擦れの音とともに、寝巻の合わせの中へ、ゆっくりと入ってゆく。

 彼の一連の挙動に、は声にならない声をあげ、熱いため息を漏らす。
 膝を擦り合わせ、澄みきった湖面のような瞳が、波打ち、揺れる。


「義勇さん」


 顔を上げた彼の目に、切なげな表情のが映る。
 の目にもまた、彼が映っている。


「お前を失いたくない」


 しんしんと降り積もる雪、落ちた椿は薄らと、白に沈む。







'凍瘡'
C.Debussy: Des pas sur la neige
2020.04.22