おろかな蕾







 帰りのホームルームを終え、にぎやかな騒音が廊下いっぱいに鳴りひびく。リノリウムの床は太陽の日ざしをあびて艶々とかがやいている。窓辺からグラウンドを見おろせば、何人もの生徒たちが校門から吐きだされ、散り散りになっていく。

 わたしはまだ、校舎をはなれ、家に帰ることができない。
 帰ることが許されていないのだ。
 いつものように教室を出ようとしたとき、悲鳴嶼先生から、生徒指導室へ行くようにと耳うちされた。理由なんてとうにわかりきっていたので、わたしはにっこり笑って、こころよい返事をした。

「はい、違反者の個別指導ですよね」


 悲鳴嶼先生は目に涙を浮かべ、困ったように薄くほほえんだ。
 は成績優秀なのにもったいない。かわいそうな子だ。
 両手を擦りあわせて先生が言うのを、わたしはいったい何がもったいないのだろう、何がかわいそうなのだろうと考えながら、でもそれも考えてもしかたがないと思いなおして、うつけたようにきいていた。



 生徒指導室は一階の西側、職員室と校長室をとびこえた角にある。扉は周囲の壁とおなじような色をしていて、まるで通りすぎてくれとでもいうような、目立たないつくりをしている。普段、生徒たちがそこへ足を踏みいれることはなく、よほどの事態でないかぎり、ここへ呼びだされることはない。わたしは三回扉をノックして、できるだけ音のしないようにそうっと引き戸を押しあけた。


「失礼します」


 そこには細長い会議用のテーブルが長方形になるように囲んで配置され、いちばん奥の真ん中、会議ならば議長が座る場所に、冨岡先生は座っていた。わたしはしずかに扉を閉めて振りかえり、背筋をただした。


「鞄を置け」

 そう言って先生が席を立ち、わたしのほうへと近づいて来る。わたしは肩にかけていた通学鞄をテーブルの隅へしずかに置いた。教科書や参考書でいっぱいの鞄は、ずしりと鈍い音をたてて、テーブルの上に安定した。


「そこに立っていろ」


 先生が、わたしの目の前までやってきて、わたしを見おろす。鋭い視線が、針のように身体じゅうを刺してゆく。刺された身体は火傷したように熱く、じわじわと汗が吹きだし、鼓動はおおきくなり、その速度を上げる。わたしは、先生と視線を交えないよううつむいて、薄汚れた上履きの先をじっと見詰めた。

 先生の手がわたしの腰へと伸び、その一瞬の挙動に、もしかしたら鳩尾のあたりを殴られるのかもしれないと、かたく目蓋を閉じる。伸ばされた手は、薄らと下着の透けて見える、白いブラウスの裾をつまんだ。
 わたしが毎日、ちょうどよい具合に食み出るよう弛ませたそれを、骨ばった指で、ぐいと引っぱる。恐る恐る目蓋を開き裾に目を向けると、スカートに仕舞われていた部分には、たくさんの皺が寄っていた。先生は、皺だらけのそこに隠されていた二重に丸め折られたスカートのウエストを、じっと睨んだ。


「スカートが短過ぎる。ウエストを折り曲げるなとこの前も言っただろう。お前は何度言われれば気が済むんだ」


 風紀委員が記録したわたしの校則違反の報告書には、服装違反、染髪、アクセサリーの着用、遅刻など、さまざまな理由が記されていた。違反を五回繰りかえすと、生徒指導員の教師による個別指導、さらには反省文の提出が課せられると生徒手帳に記載されていたし、新学期直後の集会でも、学年主任の先生がおなじ内容を話していた。自分では、五回まで律儀にかぞえていたけれど、違反者は日に日に増えるばかりで、いくら待っても個別指導の呼びだしがめぐってこないので、それ以降はかぞえるのをやめてしまった。先生の手元の報告書によれば、新学期に入ってから、わたしはすでに十以上の違反を繰りかえしていた。

 わたしの、数々の愚行のつづられたバインダーをテーブルに置き、先生は流暢にわたしを叱った。手をあげるのでもなく怒鳴り散らすのでもなく、ところどころ語気を強め、淡々とわたしを叱った。まるで父親の説教を受けているみたいだと思った。わたしはだまって先生を見詰め、いたく真剣な表情でそれをきいた。
 先生は、叱るときには随分となめらかに言葉を発する。わたしは顔を上げ、先生をまじまじと見つめた。身長差のために伏せられた彼の目蓋やそこから生えそろった長い睫毛がこの世のものでないほどにうつくしく、わたしだけを捉える視線に恍惚とする。叱られているのに、幸福感さえ覚える。先生がわたしだけのために時間を割き、わたしのことを思って、わたしのために、言葉を投げかけている。うれしくてたまらなくて、ついうっかりほほえんでしまいそうになるのを、わたしは唇を噛んで必死に堪えた。



***




 わたしがこれだけ規則を破るのは、先生の所為なのだった。最初はほかの女子生徒たちとおなじ、あこがれのような気持ちだった。毎朝決まった時刻に昇降口へ行けば、先生はいつも下駄箱の前に立って、風紀委員とともに髪型や服装の指導をしていた。彼はわたしの視線になど目も当てずに、違反者ばかりを次々と捕えていった。わたしの世界にはもう、確実に彼が存在していて、わたしの見るすべてをあざやかに彩っているのに、彼の世界にはわたしの影すらも存在していないようだった。

 先生の呼びかけに応じて立ち止まる生徒たちのなかには、彼を慕い、呼び止められようと自ら違反する者もいて、その際の彼女たちの汚らしい笑顔、満足げな反抗、そのずるさに、わたしは底知れない憤りを感じた。湧き上がるこの感情が嫉妬であると気づくのに、たいした時間はかからなかった。翌週には髪を染め、ピアスの穴を開け、学校指定外のセーターを着て、スカートの丈を短くした。
 そうしてようやく、先生の世界にわたしが息づいた。



***




 ここへ来る前、トイレに籠もって利き手と逆の人差し指を包帯で何重にも巻きつけておいたので、わたしの片手は思うようにならなかった。腕を持ちあげ先生にそれを見せると、先生は一度だけピクリと眉をひそめ、冷静な口振りでわたしにたずねた。


「その指はどうした」
「家の扉で挟みました」


 だから、スカートを直せないんです。
 そこまで言ってわたしがじっと先生の目を見詰めると、先生は心持ちうんざりした様子で、白く腫れ上がったわたしの人差し指に視線を送った。


「指が、隙間に入らなくて」
「自分で折り曲げたのだから、自分で直せ」
「短くした後で挟んだんです」


 だから、先生、直してください。

 そう言って、もういちど先生の目をまっすぐに見詰める。廊下を歩く生徒たちの、上履きの音が遠くにきこえる。通気のため、わずかに開けられた窓の隙間から熱気を帯びた風がクリーム色のカーテンのドレープを揺らし、頬をやわらかく撫でてゆく。不均一なスカートのプリーツがはらはらと腿を掠める。ふたたび、先生の手がわたしの腰へと伸びてくる。


 先生はため息をついて背骨を曲げ、ほんのすこしだけ前屈みになり、向き合うわたしは足のつまさきに力を入れて、重心を前方へと傾ける。両腕は脇を開いてだらりと宙をさまよい、先生の邪魔にならないようにする。先生の親指がブラウスとスカートのウエストとのあいだの、汗と体温とで熱を帯びた部分に差し込まれ、折られたプリーツがすこしずつ姿を現していく。折り目を開くたびに、先生の指先が腰に食い込み、内側の骨を擦り、たとえブラウスの薄い布越しであっても、わたしはその指の骨ばった感触に目をつぶって、うっとりとする。
 ほんとうはもっと近くで、直接、肌を撫でてほしい。
 汗ばんだ肌の上を、かたくて厚い手のひらが滑ってゆくのを思いながら、わたしは先生の指の動きを、皮膚から骨、神経へと伝え、記憶する。与えられる心地よさに身をまかせ、無意識のうちに浮かせた踵はすこしずつ均衡を崩し、蹌踉めき、軸の保てなくなった身体は先生の懐へと倒れこんでしまう。


「あっ」


 ラガーシャツのくたびれた生地の弛みを握って、胸ぐらへ抱きつくように顔を埋めれば、先生のにおいが鼻を通ってわたしの身体の隅々まで届いてゆく。お日さまのにおい、衣服に染みついた体臭や汗のにおい、洗濯洗剤のにおい、それらが綯い交ぜになったおとこのひとのにおいを、身体の奥深くまで行き渡らせ、何度も呼吸を繰りかえす。わたしはもう、人差し指に巻きつけた包帯のことなんてすっかり忘れて、先生の衣服をかたく握りしめ、胸ぐらへ夢中で頬を押しつけた。先生はちっとも驚かず、くっついたわたしの身体を無理矢理に引き離すこともせず、無言のまま包むようにわたしの腰に手をまわして、丁寧にスカートを直しつづけた。



 やがてすべての折り目が開かれると、スカートの裾は膝頭より十センチほど上のところに落ち着いた。折り目の跡を残しつつも本来の均一性を取り戻したプリーツはひらひらと風に揺れ、短かった時よりも重みを増したように感じた。





 先生のおおきくてあたたかい手がわたしの肩を掴み、くっついていた身体は呆気なく剥がされ、低く落ち着いた声がわたしの名前を呼ぶ。そうして深く青い、透き通った海のような色をした目が、まっすぐにわたしを捉えた。ただしそれは、いつもの、下駄箱の前でわたしやほかの生徒たちの愚行をひとつ残らず摘発してやろうとするまなざしだった。


「冨岡先生」


 先生、聞いて。
 わたし、先生がすき。


 わたしはブラウスのリボンを、先生に見せつけるように、ゆっくりとほどいてゆく。乱れた明るい色の髪と肌との合間から、ネックレスの華奢なチェーンの銀色が先生の目に留まればいいと思いながら、襟を寛げ、ゆっくりと胸元を広げてゆく。先生の骨ばった指がわたしのうなじに触れ、首筋の髪を分け、拙い所作で何度か失敗しつつも留め金をはずして、もっともっとわたしを叱って、そうして大きく見開かれた目蓋の奥の、その透き通った水面にわたしだけが映し出されればいいのにと、わたしは夢見心地だった。







2019.08.07
2019.08.22: 改題、加筆修正