少女とその処女性、脆性破壊







 水泳、さぼりすぎじゃねえの。
 先生はわたしのほうをちらと見てから、舌の先で器用にガムを薄く伸ばし、それを風船のようにまあるく膨らませて言った。教卓には子どもの頃たくさん読んだ絵本よりももっとおおきなサイズの分厚くて重い本が何冊もかさなっていて、先生はそのいちばん上の本を今まさに手に取ろうとするところだった。


「泳ぐの嫌いだし、今週生理だから、べつにいいの」


 女の子だけに許された、まるで水泳の授業から逃げるための常套句でもあるような嘘みたいなほんとうの理由をつたえると、先生ははじめから興味などないとでも言うように「あ、そう」とみじかく返事をして、知らない油絵画家の作品集を片肘をついてぱらぱらと眺めはじめた。ページをめくるときの上質な紙の擦れる音が奇妙なほどにくっきりとわたしの耳に届いた。


 わたしは窓際の席に座って頬杖をつき、眼下のプールサイドを眺めた。窓際と言っても、このまえ先生が壁を爆破してしまったので実際には窓なんてどこにもないのだった。おおきく開放された壁からはあらゆる方向から風が入ってきて、はるか遠くに聳えたつ山々やその手前の住宅街のさまざまな屋根の色や形、蜘蛛の巣のように張りめぐらされた電線、駅の向こうの神社を囲むようにして生い茂る竹林、何気なく過ごしていると決して見えてくることのない俯瞰の景色を望むことができるので、わたしはこの美術室からの眺めがすきだった。それに、自分のクラスの授業の風景を誰にも気づかれることなく見学するなんて、めったにできることじゃない。クラスメイトの誰かが飛び込むたび高く上がった水しぶきが宝石のように光り輝き、ゆらめく水面の白い反射がまぶしくて、思わず目蓋を細めてしまう。


って、意外と派手な横顔してんのな」
「はい?」
「いや、鼻筋とか、口元とかさ」


 教卓の下に溜められた要らなくなったプリントの一枚を取りだして、先生がわたしの斜め前の席に座った。椅子の向きを変え、わたしと向かい合う。汚らしい音をたて噛んでいたガムを包み紙に吐き、ゴミ箱に放り投げる。もう何度もおなじことをしているからか、ねらいを定めなくてもそれは容易に、吸い込まれるようにして入ってゆく。そうして質のわるい紙を裏返し、白紙の面をおもてにして、さらさらと鉛筆を動かした。
 描きだされたのは、わたしの横顔だった。


「意外とっていうのは、失礼じゃない」


 わたしが言って正面を向くと、先生は「自分で言うんじゃねえよ」と笑って、それから「横向け、横」と追いかえすように手を払って指示した。わたしは黙って、言われたとおりに横を向いた。何人ものクラスメイトが入れ替わり立ち替わり、飛び込んでいくのが見える。


「顎、前に出しすぎだろ。姿勢も悪いし」
「こう?」
「それは引っ込めすぎ」
「ええと…じゃあ、これぐらい?」
「不自然」


 もう、よくわかんない。

 ため息といっしょに全身のちからを抜き、諦めたようにすこしだけ顎を前に突きだして、先生のほうを向く。


「先生、動かしてよ」


 頬杖をついた側の肘と机の表面とが擦れ、薄い皮膚の部分に鈍い痛みが走って、それとほとんど同じくらいのタイミングで、先生がおもむろに腰を上げた。おおきな体躯を折り曲げて天板を覆い隠すように前へと屈み、肘をついて、ごつごつした絵の具のにおいのする手でわたしの顎を掴んで強引に持ち上げた。先生の手はわたしの顔なんて簡単に潰してしまいそうなほどおおきくて、手のひらの皮膚は厚みがあってかたくて、しっとりしていた。


「色もいいし、柔らかくて、形もいい」


 ふいに先生の親指の腹が、ゆっくりとわたしの閉じた唇を撫でた。何かに納得したみたいにちいさく微笑み、眩しそうに目を細めて、指の腹を押しつける。わたしの唇の上を、何度も行ったり来たりする。撫でられた唇は先生の指の動きに合わせて輪郭を変え、片側に寄せられては引き伸ばされてゆく。
 そうして顎を差しだし、撫でられているうちに、わたしは突然に先生の親指を食べてみたいと思った。もしその親指をぱくりと咥えてみせたなら、先生はどんな反応をするだろう。先生の指は絵の具のにおいの味がするのだろうか。わたしは湧き上がる好奇心に身を任せて、薄く口を開け、先生の親指を唇でそっと挟んでみせた。そして上下の前歯の隙間から恐る恐る舌を出し指先へ添えてみると、不思議なことに、先生の指はなんの味もしなかった。


「なに、お前」


 短い息を吐くように、わらい声が上のほうから降ってきて、わたしは上目をつかって声のする方向を見た。先生の着ているフードの翳から額当ての輝石がきらきらと淡く光っていて、綺麗だと思った。そこからゆっくり視線を下ろしていくと、鋭い眼光がわたしをとらえていた。


「誘ってんの?」


 訊ねる先生の声は授業中のそれよりもずっとつめたいのに、わたしを見下ろす視線は潤み、熱を孕んでいるようにも感じられて、わたしは頷くかわりに舌先にほんのすこしだけちからを入れ、指先を舐めあげた。


「そんな目で、俺を見るな」


 先生の顔が目の前まで近づいてくる。その瞬間に黒い影が降りてきて、わたしはぎゅっと目を閉じた。咥えていた親指は引き抜かれ、わたしの片頬をなぞって濡らし、だらしなく開いたままだった唇には先生の唇が重ねられた。なにも見えない、真っ暗な闇のなかで、先生のあたたかく湿った手のひらが頬を包み、舌は生き物のように口の中を動きまわる。わたしは自分の舌をどこに置いておけばよいのか分からず、舌の先のほうをちょっとだけ浮かせてみると、そこに先生の、やわらかくて乱暴な舌が纏わりついて、それは逃げようとするたびに追いかけてくるようだった。

 そうして逃げて、追いつかれてを繰り返しているうちに、先の見えないトンネルのなかをひたすらに走りつづけているような、耳がつうんとする感じがあって、だんだん呼吸の仕方も分からなくなって、口を開けて、もがけばもがくほどどちらのものともつかない唾液が溢れて、くるしくて、頭の奥からなにか得体の知れない幕みたいなものが下りてくるような感じがして、すこしずつ遠くなっていく意識の中でわたしは思った。

 この感覚、溺れたときと似てる。



「そんな顔、どこで覚えるんだろうなあ」


 女ってのは。
 気の遠くなるような深く長いキスのあと、先生がそうつぶやいて、それからまた短く息を吐くようにわらった。輪郭の外側まで濡れた唇がひどく煽情的で、わたしはなんだか目を合わせることができなくて、すぐに外へ目を向けた。壁の向こう、プールのある側からバシャバシャとおおきな水しぶきの音がして、もしかしたら誰かが溺れているんじゃないかと思ったけれど、あんまりよくわからなかった。


「そのまま横向いて、外見てろ」


 先生は丸くて柔らかい鉛筆の芯をするするとすべらせて、わたしの横顔を描くのを再開した。ときどき正面へ回り込んで、少年のような目で、わたしの顔をじっと見詰める。たちまちわたしの頭のなかで先刻の絡みつくような視線や舌、冷ややかな嘲笑とが交互にあらわれ、目頭のあたりがかっと熱くなる。



「……」
「おい」
「…はい」
「明日からは、ちゃんと授業受けろよ」
「……」
「それから、授業のとき以外、もう此処には来るな」


 外の水の音が消え、わたしは先生から奪った線画を手に、なにも言わず美術室を出た。

 薄っぺらな紙のなかで、奥行きのないわたしは確かに悩ましげな、うっとりとした切ない女の顔をしていて、それがとても悔しくて、やるせなくて、それと同時に途轍もない淋しさにおそわれて、ものすごい速さで逃げるように階段を駆け下りた。そうして下りた先にある渡り廊下の途中、自動販売機の横のゴミ箱へ、手に持っていたその紙をぐしゃぐしゃに丸めて捨てた。それなのに、モノクロームの、卑猥な横顔をした自分の姿はしっかりと目蓋の裏に焼きついていて、わたしはもうどうしたらよいのか分からなくなり、崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。首から上が異常なほど熱く、心臓はどきどきと活発に鳴り、息をするたびに肩がおおきく揺れて、喉はからからに渇いていた。こうべを垂れ膝のあいだに顔を埋めると、あたりまえだけれど地面がいつもより近くにあって、陽に焼けたコンクリートのにおいと、スカートのなかの汗や血や、剥がれた粘膜なんかが混ざりあったいやなにおいがもやもやと立ち上がってきて、気づくとわたしは泣いていた。


 ──もう此処には来るな。


「……キスしたくせに」


 わたしが授業を抜けだしてまであの場所へ行く理由も、指を咥えた理由も、挿し込まれた舌を拒絶しなかった理由も、なにもかも、知ってるくせに。
 股から溢れ出た血がじわりと下着に沁みてゆくのを感じながら、わたしはしばらくのあいだ、その姿勢で泣いていた。涙は次から次へと頬を伝って、地面に垂れた。







2019.08.28