陽炎







 休み時間、クラスメイトたちの馬鹿馬鹿しい恋の話を聞いていると、心底うんざりした気持ちになる。となりのクラスの男の子がかっこいいだとか、サッカー部の先輩が最近彼女と別れて新しい恋人を募集しているらしいのだとか、そんな幼稚な話ばかりしているので、そういうとき、わたしはたいてい窓の外を眺めて、先生のことを考える。
 次は先生の授業。はやく、来ないかな。クラスメイトの浮ついた話し声を耳に流して、わたしは適当な相槌を打ちつづけた。かっこいいっていうのは、先生みたいなひとのことを言うのになあ、と、心のなかでつぶやきながら。


「せんせい」



 煉獄先生。

 先生の姿を見かけるたびに、わたしはその一挙手一投足を見逃さないようじっと見詰め、そこから、現実とは遠くかけ離れた、先生でありながら先生でない彼のまぼろしを頭のなかに映しだして、そこでわたしと先生は、何度も何度も愛しあう。





***






 たとえば授業中、チョークを握る指。
 白い粉末に塗れた指先がわたしのからだを優しくなぞって、ブラウスの裾を捲り、ちいさな胸に触れるとき、わたしは全身を駆けめぐる甘い痺れに身震いし、掠れた声で先生を呼ぶ。

「せんせい」


 わたしの思い描く世界のなかで、先生は、決して多くを話さない。黙って、わたしが先生の与える快感に堪えられなくなっていくのを、厚みのある手のひらを滑らせて、おおきな目をさらにおおきく見開いて、できるだけまばたきをしないで、ただただ、わたしを見下ろし、見詰めているだけ。



 たとえば授業中、資料を広げ持つ腕や手のひら。
 まっしろなシャツの、捲り上げた袖口から、太くて筋張った逞しい腕が伸びて、それはわたしのからだを簡単に抱きしめることができるし、簡単にベッドへと運ぶことができる。それから、重なるふたりのからだを簡単に支えることだってできる。

「せんせい」


 そうして先生の指がわたしの内側へゆっくりと入ってきて、上のほうの、深い粘膜の壁を擦るとき、その腕が指先へ少しずつ振動を与えて、わたしはあっという間に高みへと昇り詰めてしまう。先生の手は、わたしの垂らす体液でいつもびしょびしょに汚れてしまうのだけれど、それでも先生は、わたしのぜんぶを包むように、優しくほほ笑んでくれる。



 たとえば授業中、生徒の名前や教科書を読みあげるときの唇。
 触れるか触れないかの、唇どうしを添えるようなちょっとしたキスから、べたべたした濃厚なのや、啄ばむように繰り返すキス、舌先だけをゆるく絡ませあうようなものまで、先生はいろいろな口付けの仕方をわたしに教えてくれる。柔らかく纏わりつく舌のざらざらした感触に、わたしはうっとりしながら先生の腕にしがみつき、最後の力を振りしぼって言う。

「せんせい」

 せんせい、すきです。


 わたしたちの会話はいつだってわたしからの一方的なそれなのに、最後だけは、先生もはっきりと言葉を返してくれる。「うむ」と、おおきく首が縦に振れて、泣きそうな顔をしたわたしはうれしくなって笑うのだ──。





***






「──!!」


 となりのクラスにまで聞こえるくらいのヴォリュームで自分の名前が叫ばれて、思わず起立すると、先生ははきはきと滑舌よく、教科書を読むようわたしに指示した。

「次の段落から、、読んでくれ!」
「はい、ええと……」
「着席していいぞ!」
「……はい」


 すっかり幻想の世界へ飛び立っていたわたしの頭は、授業の内容などまったく入っていなかった。クラスメイトたちの視線がわたしへと集中し、恥ずかしさと、先生への申し訳ない気持ち、さらには先生の体や声、まなざしに、先刻までのわたしの頭のなかでの出来事が重ねられて、わたしは上半身へ急激に熱が集まってゆくのを感じた。血管が燃えあがり、血液が頭のなかで沸騰し泡立ちながら、机に手をつき着席する。となりの席の男の子が、蛍光色のマーカーの先をわたしが読むべき段落に押し当て、「、ここから」と教えてくれる。わたしはそんな彼を横目に、薄く口を開け、浅い呼吸を繰り返す。

 言葉が、何も出てこない。


「……先生、保健室へ行ってもいいですか」
「む、気分でも悪いのか?」
「はい、ちょっと、熱があるような気がします」
「確かに、顔が少々赤いな!」
「すみません……」

 一人で行けるかと訊かれて、わたしは席を立ち、大丈夫です、と返事をして足早に出て行った。授業は滞りなく進み、教室からはわたしの後ろの席の女の子が、わたしが読むことになっていた段落を流暢に読みあげているのが微かに聞こえ、わたしは保健室に向かってとぼとぼと廊下を歩いた。途中、窓ガラスを鏡のかわりにして自分の顔を映してみれば、ガラスを通して見ても頬が赤く色づいているのがわかって、余計に恥ずかしい気持ちになった。耐えかねて女子トイレに駆けこみ、顔を洗って手の甲を頬へ当てがうと、常温の水道水をつめたいと感じるほどには熱くなっていた。



 保健室は無人だった。出入り口の扉には厚いボール紙で手づくりされた看板が掛けられ、それは先生の不在を表していた。わたしはできるだけ静かに室内へ入って、先生のデスクの上に、体調が悪いから横になるとのメッセージを書き置いた。

 無機質な白いパイプのフレームが軋み、消毒液のにおいのするベッドは硬くて、とても心地よく眠れるようなものではなかった。なにより教室での痴態が、わたしのさまざまな思考をほとんど遮ってしまうのだった。
 わたしはベッドへ寝転びながら、何度も体勢を変えた。仰向けになり、うつ伏せになり、廊下側へ横向きになり、窓側へ横向きになって、漸くすこし落ち着いた。右頬を枕に押しつけると、いくらか熱は退いたものの、まだわずかに火照りが残っていた。


「せんせい」



 薄い掛け布団の下、自分の手を潜らせて下着の上から胸をまさぐる。先生の、かたくて厚い皮膚が先端を弾くのを思い浮かべながら、爪で軽く引っかいてみる。下着越しにもかたく隆起するのがわかって、わたしの呼吸はだんだんと大袈裟な息を吐くようになり、顔の火照りがゆるやかに下のほうへとおりてゆき、おへその下のあたりがむず痒く感じるようになった。膝を擦りあわせて、ぎゅっと目をつぶると、一瞬だけ真っ暗な闇があって、そのあとはまた先生の幻影が、くっきりと浮かびあがってくるのだった。



 そうしてわたしの右手が先生を演じ、撫でていると、突然に授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
 それは昼休みのはじまりでもあった。生徒たちが廊下を走る音が聞こえ、軽く、弾むような賑やかな足音に、この生徒たちはきっと売店へ向かっているのだと思った。そんな彼らとは逆さまに、わたしの気分はもう最悪だった。教室には戻りたくなかったけれど、病気という病気でもないわたしのからだは人並みに食欲が湧いて、机の横に引っ掛けたままのお弁当の入った手提げバッグを恋しがって小さな呻き声をあげた。


「失礼する!」


 先生の溌剌とした声が響き、扉が開く。聞き慣れているはずの声なのに、わたしはびっくりして飛び起きて、それから飛び起きたことを悟られないようにもう一度布団に潜り、そうっと上体を起こしてベッドの縁に腰かけた。生徒思いの、優しい先生のことだから、授業を終えたその足でわたしの様子を見に来てくれたのだろう。
 先生の手が仕切りのカーテンを引く。ほんものの先生の指が見える。短く揃った爪、かたそうな丸い指先が、カーテンの端を引っぱってゆく。


、寝ているのか?」
「あの、起きてます」
「気分はどうだ? 少しは楽になったか?」
「はい、ありがとうございます」
「昼食は食べられそうか?」
「はい。あの、授業中に迷惑をかけてしまって、ごめんなさい」
「なに、心配することはないぞ! 今日はあのあと騎馬戦をしたからな! 教科書の内容はあまり進んでいない!」
「そうですか……」
「それにしても急に熱を出すとは驚いた! は特異な体質をしているな!」

 先生は片手に教科書と資料集、余ったプリントを抱え、目を見開いて明るく笑った。


 先生、わたし、べつに特異な体質なんかじゃないんです。でも、わたし、先生と出会ってから、なんだか変なんです。わたし、先生といると、とっても変になってしまうんです。先生を思えば思うほど、どんどん変になっていくんです。先生がちょっとでもわたしの視界に入るだけで、胸がどきどきして、現実の一切を考えられなくなって、先生とそっくりな、先生のまぼろしを頭のなかに作りあげてしまうんです。その世界でわたしと先生はすでにかたく結ばれて、愛しあっていて、でも、言葉を交わすことは、一度しかないの。

 先生は、こういうこと、経験したことありますか?
 先生の思う世界に、わたしは存在していますか?


「……先生のせいです」


 そうつぶやいた直後、はっとしたように驚く先生の表情を見て、わたしは取り返しのつかないことを言ってしまったと思った。激しい罪悪感に苛まれ、唇が震えて、堪えきれずに涙がぽろぽろ溢れだした。溢れてくる涙を隠そうと俯くと、先生がわたしの前に膝をつき、覗きこむようにしてわたしを見詰めた。

「そうか! 心当たりはまったくないが、不快な思いをさせてしまったのならば謝ろう! すまなかった!!」


 わたしは先生にこんなことを言わせるつもりじゃなかったのに。先生のせいだなんて、勘違いも甚だしい。ぜんぶ、わたしのせいなのだ。先生を、すきになってしまったから。


「ちがうの」


 震える右手がシーツの皺を掴んで、砂でも握って投げるみたいに、わたしは先生の肩めがけて、空気を投げつけた。先生の髪の、横のところがほんの少しだけ揺れて、わたしの右手は先生によって捕まえられてしまった。
 このとき、わたしはほんものの先生にはじめて触れることができた。おおきな手のひらは、やっぱり厚みがあってがっしりしていて、包みこむようなあたたかさがあった。わたしの気持ちはどんどん昂ぶってゆき、でもそれは、単にうれしさからくるものだけではなかった。力強く握られた手は、まぼろしが、ただのまぼろしでしかないということ、今後の展開への望みがないことを暗示しているようにも感じられた。そしてそれを決定づけるように、先生はちょっと困ったような顔をして、「俺の授業に何か原因があったのならどうか遠慮なく言ってほしい! 今後、他の生徒たちのためにも改善していきたい!」と声高に言った。
 教育熱心な、ひとりの教師としてのまっすぐな視線が、わたしを捕えて離さない。


「ちがうんです」


 わたしは握られた手を振りほどいて、もう一度、空っぽを掴んで、先生めがけて投げつけた。晩夏の、じっとりと湿った空気が、まるで陽炎のように揺らめきながら、わたしたちのあいだを漂っていた。







2019.09.11