美しい夜
※一部グロテスクな表現を含みます。







 わたしはとてもおなかがすいていました。
 鬼になっても、何年、何十年経っても、食欲というのはなくならないのだなあと、わたしは畳の上へ横になり、へっこんだ自分のおへその辺りをさすりながら、そんな莫迦げたことを、ぼんやりと思っていました。
 真新しい畳の、い草のにおいを吸いこんで肺に満たしてゆくと、だだっ広い草原のなかにわたしひとりが立ちすくんでいるような気分になりました。


「君も喰べるかい」


 縁側に腰掛け、背を向けていた彼が振り返り、歯を見せずに、血に塗れた唇の両端を裂くように吊りあげて、にっこりと爽やかに笑いました。わたしはおなかがすいていて、それもひどい空腹でした。しかしわたしは若い男が喰べたかったので、とてもそんなふうに笑うことができませんでした。唇の右端のほうをすこしだけ持ちあげて、しずかに頷き、ぎこちなく微笑みました。


「わたくしは結構です」
「そう。では、はどんな人間が喰べたいのかな?」
「……赤身がいいです。噛み切れないほど、弾力のあるのが喰べたいです」
「うん、赤身か。いいねえ。このところずっと若い女ばかり喰べていたから、君には脂肪が多くてもたれたことだろう。すぐに連れて来るよ」



 森のなかのこの家に、明かりと呼べるものはひとつもありませんでした。遠くの空に見えるお月さまが、仄かな鈍色の光を投げているばかりです。

 わたしたちは今日のわたしの食材について話し、彼がその食材を持って戻るまでのあいだ、わたしは裸のまま、畳の上に横たわり、深い呼吸をつづけました。新しい畳の、青々としたにおいの奥から、この家に染みついた血や肉の腐ったようなにおいが這いあがり、それはわたしの体ぜんたいを薄い膜のように覆って、だからわたしは何度も寝がえりをうたなければなりませんでした。



 暫くして、彼は食材を連れて戻ってきました。わたしは久しぶりに若い男の人間を見ました。けれどもそれは人間というにはほど遠く、首と胴、四肢とがばっさりと切断されていて、赤い血が大量に滴り落ちていました。男の顔は恐怖に怯えたまま、口からは泡を吹き、焦点の定まらない、充血した目をして死んでいました。体はすでに硬くなりはじめていて、拳は力強く握られたまま、きっと彼に殴り掛かろうとしたのでしょう、それは彼に届く前に、彼の手によって阻まれてしまったようでした。彼は男の髪を掴んで重そうな首を左右に揺らしながらわたしに近付き、いたくご機嫌な様子でそれらを見せびらかし、「血気盛んなのを持って来たよ」と、愉しそうに言いました。

「なかなか威勢のいい男だったなあ。ほんとうはすぐに殺さないで連れ帰るつもりだったんだけど、あんまり暴れて煩いんで、道中で切ってしまったよ。新鮮なのをに食べさせてやりたかったんだけどなあ。血もこんなに溢してしまった。勿体ないけど、まあ、仕方ない。どうせ千切って喰べてしまうのだし、ちょうどいいよね」

 毛深いから皮を剥いで喰べよう、と彼が言い、男の衣服を爪で引っ掻いて破りました。すると懐に、押し花のように潰れた一輪の花がありました。わたしはそれを見つけると親指と人差し指でそうっと挟み、顔とおなじ高さに掲げ、まじまじと眺めました。山吹色の花弁は萎み、茎や葉は枯れ、何という名前の花なのかももうよくわかりませんでしたけれど、これが美しいものであるということだけはなんとなく理解できました。


「人間は、果敢無いものに美しさを見出します」


 わたしがそう呟くと、彼は冷酷な笑みを浮かべて、そうだねえ、可哀想に、と返しました。それはわたしを哀れみ、嗤っているようにも聞こえましたし、人間を嘲り、莫迦にしているようにも聞こえました。

「そういう点では、君はとても稀な存在だね」
「…どういう意味でしょう」
「君は永遠を手にしながら、美しいまま生き続ける。俺は美しいという言葉よりほかに、君を形容する術を知らない」

 筋っぽく硬い赤身肉を頬張りながら、彼は優しく言いました。返り血を浴び、嚥下し濡れた唇は艶やかにわたしを魅了して、わたしは誘われるように彼の首へ絡みつき、唇を吸いました。人間の血のにおいのする接吻は、わたしたちを瞬く間に享楽の世界へ引き摺りこんでゆきました。

「永遠を手にしたわたくしは、美しいとは言えません」
「なぜ? こんなにも浄らかな体をしているのに」
「わたくしは愚かで、卑しい鬼なのです。貴方やあの方の血がなければ、生きてさえゆけません」
「哀しいことを言わないで。さあ、俺の膝の上へおいで」


 彼がわたしの体を撫で、内部へと押入りその血を分け与えるとき、もしかしたらわたしにも、穢れを知らない、果敢無くも美しい時分が少なからずあったのかもしれないと思わずにはいられませんでした。そうして、かつて人間だったわたしの、丸くぼんやりとした記憶が頭の中の仄暗い闇から泡沫のように蘇ってくるのでした。──恋人に裏切られ、永遠の愛の存在を信じ、それを願っていたわたしは落胆、絶望し、怒り狂い、自らを差し出し鬼になりました。鬼になって直ぐに、恋人と、恋人を奪った女をこの手で殺し、喰べました。女には生きたまま眼球をえぐり、舌を切り、髪を抜き、性器を裂いてやりました。女が恐怖に慄き、泣き叫び、蒼褪めた顔で震えながら命乞いをするのを、鬼になったわたしは蔑むような目をして見、それらを小川のせせらぎでもきくように、穏やかな心できいていました。恋人には苦しまなくて済むように、簪をひと思いに突き刺し、震える唇へ接吻し、歯で舌を噛み切ってやりました。そうした復讐の果てに、わたしは恋人の血肉を食べ、味わい尽くし、永遠に生きることとなったわたしの体へ恋人を取り込むことによって、永遠の愛を手に入れようとしたのです。



「ところで、この男は何処で手に入れたのですか」

 彼に訊ねると、彼はわたしの言葉の意図を汲み、嬉々として手を取り抱きかかえ、男の家へと案内してくれました。そこには男の嫁と思われるひとりの女が蹲っていました。襖の傍で泣きじゃくり、お座敷には男の分の布団が丁寧に敷かれてありました。

「可哀想に」

 わたしは女の肩を優しく叩き、天鵞絨のような彼女の頬を指の背でそっと撫でてから、真白に浮かび上がる喉へ、容赦なく爪を突き刺しました。最期にひゅうっとおおきく息を吸う音が聞こえて、突き刺した爪をさっと右へ引っかくと、再び赤く染まった景色がわたしを包みました。軒先の、月光の下で一部始終を眺めていた彼は、やっぱり歯を見せないで唇の端だけを器用に吊りあげ、素敵だの、可哀想だの、救済だのと、彼のなかのとびきりの賛辞と拍手を、虹色の眼の輝きをもって送ってくれました。
 わたしは女の血を啜り、溢れてくるのを手で掬い、体に塗りたくって、傍観する彼を誘うように、男の布団の上へと寝転びました。


「美しい夜だ」


 彼は音もなく近付き、わたしの全身をくまなく舐めて、抱きました。生娘のままに鬼の姿となったわたしのからだは、毎度布団を赤く濡らしてしまいます。張り裂けるような心地よい痛みに恍惚と耐えながら、枕の端を掴んで握り締めると、それはつめたく、しっとりと湿り気を帯び、人間のにおいに満ちていました。ふと枕元に目を遣ると、隣にまだ生暖かく転がる女の首がこちらをじっとりと見詰めているのに気が付きました。

 わたしも、随分と昔はこの人とおなじ、人間だったのよねえ。

 飽食と享楽の狭間で、わたしはなんだかすこしだけ泣きたいような、懐かしいような気持ちになりました。







'しっとりとつめたいまくらにんげんにうまれたことがあったのだろう'
2019.09.04