常世の国にて
※常世の国(とこよのくに)と読みます。
※無限列車編後の話です。








 目を覚ますと、前方には青く深い海が広がっていた。波は穏やかに砂浜へ打ち寄せ、その白く縁取られた裾で無数の砂の粒子を引きつけて湿らせ、ふたたび沖へと戻ってゆく。空には薄く靄がかかり、水平線までを臨むことはできない。浜辺にはやわらかな砂のところどころに漂着した流木や岩が転がり、それらの影からは浜菊の白い花が恥ずかしげに顔を覗かせている。

 彼は見たこともないおおきな屋敷の縁側で、角張った柱に凭れ掛かるように背を預け、うたた寝をしていた。なぜ自分がこのような場所でうっかり眠りこんでしまったのか、彼には皆目見当がつかない。否、多少の心当たりはあるけれども、だからといってこの場所との関連性を見出だすことは難しかった。

 振り返れば、奥までつづく何間もの畳の間、漆や金箔といった華美な装飾こそないけれども、使いこまれ傷のついた四角い柱や節のない柾目の床の間、透かし彫りの明り欄間には荘厳な雰囲気が漂っていた。庭には薄灰色の小石が土の地面を隠すように撒き散らされ、縁側から臨く庭園の両端にはおおきな松の木が、待ちぼうけをくらう子どものように佇んでいる。その傍には人の頭ほどある石で周囲を囲んだ池があり、葉脈の透き通って見える水草や、朱や白や黒や黄金色の鯉が優雅に尾を踊らせ、その向こうには広葉樹の樹々が背を伸ばし、根元には青々とした茂みと色とりどりの花が咲き乱れていた。
 彼はまだぼんやりと眠気の残る目蓋を細め、屋敷の内外をぐるりと見渡しながら、まるでお館様のお屋敷のようだと思った。


 ──俺は夢でも見ているのだろうか?

 彼は右手の人差し指で両の目蓋を擦り、両手を突き上げ、おおきく伸びをした。辺りは心地よい静けさに包まれ、穏やかに打ち寄せる波の音と、風に揺られざわめく樹々の枝葉の音だけが絶えず彼の耳に届く。


 たしかに彼は夢を見ていた。
 先刻までの夢のなかで、彼の父親と弟は、彼の死に打ちひしがれていた。そしてその傍らには、額に痣のある深紅の髪の少年が座っていた。彼らは海のように深く暗い悲しみの渦のなかにいて、彼の最期とその勇姿を思い、背中を震わせながら、ときどき嗚咽を漏らして泣いていた。
 実体のない彼は三人に触れることはおろか、言葉を掛けることもできず、ただその場に立ち竦むことしかできなかった。もしも彼らに触れることができたなら、言葉を掛けることができたなら、俺はいったい彼らにどれだけのやすらぎを与えられるだろうか? 彼は悔しさのあまり顔を顰めた。




「杏寿郎さん」


 ふと聞き覚えのある朗らかな天女のような声が響き、庭園のほうへ目を遣ると、そこにはかつて彼を置いて先立ってしまったはずの、愛らしい少女の姿があった。


、どうして此処に」


 は白い和服の袖を口に当てて隠し、照れくさそうにはにかんだ。
 彼女の薄づきの白粉の香りが海風に混じり、彼の鼻腔をかすかに揺らす。彼はどこか懐かしさを感じながら、彼女をじっと見詰めた。張りのある頬、丸みのある撫で肩、袖口から覗くふっくらとした指と、短く切りそろえられた透明な貝殻のようなちいさな爪。白い足袋には紅い鼻緒の草履が映え、桃割の髪には彼が贈った鼈甲の玉簪を挿している。

「先程からお呼びしていたのに、杏寿郎さんってばちっともお気づきにならないから、わたくし、お迎えに来たんですよ」
「そうか、それは悪いことをしたな」
「いえ、此処はあんまり広いですから、見失ってしまうより良いですわ」
「ところで、此処はいったいどこなんだ」
「此処は、常世の国ですの」
「常世の国…、俺は、ほんとうに死んだのだな」

 は深く頷き、慈愛に溢れた微笑みを浮かべた。薄桃色のふくよかな頬が盛り上がり、目蓋は線のように細められ、目尻は滑らかに垂れ下がった。


「それより、、その体は……」

 病は治ったのか? 外へ出ても平気なのか? と、彼は立てつづけに彼女へ訊ねた。それから、自分を死に至らしめたあの一撃が跡形もなく消えているのに気がついて、手のひらで円を描くように鳩尾をさすった。
 はうれしそうに彼の目の前へ立ち、くるくると軽やかな足どりで回転して見せた。


「ええ、すっかり良くなりました。と言いますのも、此方の世界ではすべての病が治ってしまうんですよ」



 杏寿郎が見たの最期の姿は、床に臥して、歩くことも、水を飲むことすらもできず、顔は蒼ざめてほとんど骨と皮だけのような有様だった。肺をやられてしまってからの彼女は見る見るうちに衰えてゆき、伝染する可能性があるとの医師の言葉を受け、世間から隔離され、生きる屍同然だった。それでも彼は、懸命に生に縋り、生きようとする恋人の勇姿を忘れまいと、彼女の元へ通いつづけたのだった。
 彼が彼女の家を訪れるたび、彼女は変わり果てた自分の姿を見られることを嫌がったけれども、彼は以前とちっとも態度を変えずに、彼女の手を握りしめ、家族のことや稽古のこと、同僚や弟子、任務のために立ち寄った先での、四季折々の景色や食べ物等々、他愛のない話を彼女に聞かせてやるのだった。会えないときには手紙を寄越し、その間、彼女は死の恐怖から解放され束の間の幸福に浸り、その痩せこけた頬を薄らと薔薇色に染め上げた。



「わたくし、杏寿郎さんに元気な姿をお見せしたくて…、ほら、見てください、此方の世界ではこんなふうに、走ることだってできるの」
「分かった、分かった。砂利の上では危ないから、いい加減にして此処に座りなさい」

 彼が右手で板張りの縁を優しく叩くと、は白い和服の裾を揺らしながらぱたぱたと小走りに近寄り、草履を脱いで沓脱石の上に並べ、彼のとなりにぴったりと、張りつくように腰をおろした。そうして今度は彼女が、覗きこむように彼を見詰める。


「そういえば、わたくしがお声を掛けるまで眉をひそめて、杏寿郎さんは何か悪い夢でも見ていらしたのですか」
「悪い夢というか…、父上と弟、それから少年のことが気になってな……」
「少年とは、竈門炭治郎くんのことでしょうか? もしそうなのでしたら、彼らには何も心配要りませんよ」
「む、なぜ君にそれが分かるのだ」

 だいいち、なぜが少年の名を知っているのか、杏寿郎は不思議に思った。
 彼が少年と出会うよりも前に、彼女は死んでいたのだから。


 彼女は袖を捲り、ふくよかな白い手首を見せて岸辺を指差し、子守唄でも歌うような、甘く柔らかな声音でもって彼に説明した。

「あすこの岸辺に小舟が停まっているでしょう? いまは無人ですけれど、あすこにはときどき船頭さんが来て、渡賃を持って行くと、彼方の世界へ連れて行ってくれるのです。ただし、彼方の世界では物に触れたり、人に話し掛けたりすることはできません。ただ様子をうかがうだけです。わたくしは杏寿郎さんが此方へいらっしゃるほんのすこし前に、彼方の世界へ行って、こっそり見て来たのです」
「それで皆は、どうだった?」
「貴方の死を、ひどく悲しんでいらっしゃいました。大切なひとの死というのは、はじめは誰しも信じたくないと思うものです。それでも、竈門少年が貴方の遺言をご家族へお伝えし、彼らは力強く前へ進もうとしていらっしゃいましたよ」
「そうか……」
「だから、杏寿郎さんも、もう悲しいお顔をなさっていてはいけませんわ」

 彼は遠くの空に滲む沖を眺め「そうだな」と息を吐き、緩やかに口角を上げた。は子どものように彼の袖を軽く引っ張りながら、口を尖らせた。


「お母さまも、杏寿郎さんの悲しいお顔は見たくないと仰るはずです」
「母上も此処にいらっしゃるのか?」
「はい。お母さまは奥のお台所で、お食事のお支度をなさっています。杏寿郎さんがいらしたと聞き、たいそう張り切っていらっしゃいました」
「むう!」
「お母さまもわたくしも、正直のところ、ものすごくうれしいのです。無礼を承知で申し上げますけれど、わたくし、杏寿郎さんが此方へ来てくださるのを、ずっと待っていたんですから。思っていたよりもうんと早くいらしたので、すこしびっくりしましたけれど……。また貴方にお会いできて、とても、とても幸せな気持ちです」


 ふたりは顔を向きあわせ、にこやかな微笑みと好意の視線を交えた。揃いの白い和服の裾が板張りの床に擦れ、微かに音が立った。
 彼の手がの膝へと伸び、時を刻むように、何度か指だけを動かして彼女に笑い掛ける。彼女は一度だけからだをぴくりと反応させ赤面したけれども、しだいに柔和なまなざしを彼へ注いで、膝頭を包みこむように撫でている彼の温かく、ごつごつしたおおきな手に、自分の手のひらをそっと重ねた。


、俺と結婚してくれないか」
「ええっ、いまからですか?」
「嫌か?」
「とんでもない! でも、わたくしたちは結婚せずとも、永遠に一緒に居られるのに」

 杏寿郎はの膝から手を離し、今度は両手で彼女の肩をがっしりと掴み、自分の方へと向かせた。彼女は驚いて沸騰しそうなほどに顔を赤らめ、しかし彼に肩を押さえられているために裾で隠すことも扇ぐこともできず、わなわなと視線を泳がせたけれども、彼の熱意のこもった視線に、まるでわたくしの眼の奥まで焼き切られてしまうようだわ、と思い、まばたきの度に涙がこみ上げた。


「俺は君が生きていた時分からずっと、そうしたいと思っていたんだ」
「まあ、うれしい」
「それなのに、いつか言おう言おうと、言わないまま君に先立たれてしまった。俺は君に、少なからず悔恨の念を抱いていた」
「そんなこと…、どうかお気になさらないでください。貴方は貴方のご使命を、立派に全うしたじゃありませんか」

 彼の片手がの肩を離れ、指先が首すじを撫で上げる。そうして彼女の丸い顔の輪郭を確かめるようになぞり、瑞々しく、すべすべとした絹のような頬を厚い手のひらで包んだ。彼女はくすぐったさと心地よさに身を震わせて、俯きがちに目蓋を閉じた。目に溜まっていた涙がつと溢れて睫毛を濡らし、細い筋となって彼の親指の上に留まった。

。随分と遅くなってしまったが、俺の申し出を、受けてくれるか」
「もちろんです」


 わたくしの、誇り高き愛しいひと。

 彼の手のひらに猫のように頬をすり寄せて、赤くなった鼻をすすりながらは満面の笑みを見せた。そこには死に対する恐怖や長恨、未練などというものは微塵も感じられず、ただ永遠の愛への歓びに感動しているのだった。


「うむ、そうなれば、早速母上へ報告しなければいけないな!」
「わたくしもお母さまのところへ行って、お支度のお手伝いをしなくちゃいけませんわ。すぐ戻るとお伝えしたのに、たいへん遅くなってしまいました」
「では、ともに行こう」


 茫洋たる海、広大な空の下、穏やかな愛情に満ちて、この楽園の庭には、ふたり以外に、誰の姿もなかった。ふたりは微笑みながら互いの手を握りしめ、母親の元へと歩いてゆく。







A.Scriabine: 24 preludes Op.11 No.15
2019.10.29