夏蜜柑の砂糖漬け







 嘘か本当かは分からないけれど、柑橘類の皮を剥くときは、あまり刃物を使わないほうが風味を損なわないのだと聞いたことがある。だからわたしはそれを信じて、おしりの部分にだけ十字に切り込みを入れ、そこに親指をつっ込んで、外側にぐっと押し開けた。するとたっぷりの白い筋に覆われた果実がところどころ形を崩しながら現れ、淡い黄色の実が顔を覗かせた。折れ曲がった皮や果実の崩れたところから、ときどき勢いよく汁が飛び出してきて、目に入ってしまいそうで、以前レモン汁を目に入れてしまったことがあるわたしはちょっとひやりとした。

 外側の皮を剥き終えたら、つぎは、じょうのうを取り除いていく。ふたたび包丁を使って果心のほうにだけ薄く切り込みを入れ、今度はなるべく粒だった果肉を壊さないように指を入れて、そうっと薄皮だけを引き剥がしていく。はじめは力加減が難しくてうまくいかなかったけれど、やり始めるとだんだん慣れてきて、三個目を剥くころにはきれいに形を保ったまま取り除くことができた。

 果汁が溢れてしまうと掃除が大変なので、深さのあるタッパーに三個分の果肉をすべて詰めた。柑橘類特有のすっきりとした爽やかな香りが、タッパーからも、まな板からも、わたしの手からも漂っていた。わたしの手は、指先から手首のあたりまで果汁が滴り、すっかりべとべとになっていた。


「何だこれは」

 洗濯物を干し終え、ベランダから戻ってきた彼が、ていねいに手を洗いながら、シンクの隅の三角コーナーに山のように捨てられた薄皮や、タッパーに敷き詰められた大きな果肉を見てわたしに訊ねた。

「夏蜜柑か」
「そうそう、バイト先のおばさんにもらったの。そのままだと酸っぱいから、砂糖漬けにしようかと思って」
「…そうか」

 彼のあとに手を洗おうと、となりにくっついて順番を待つ。残さず泡を流した彼は続くわたしのために蛇口から水を流したままにした。そうして引き出しの取手にぶら下げられたタオルで水気を取るまえに、果汁でべとべとになったわたしの手首を掴んで、僅かに身を屈めた。

 今洗ったばかりなのに。
 そう思いながら、彼の行動の意図がよく分からなくて、掴まれたまま動けずにいると、彼の舌が、手首のあたりから手のひらを伝って、小指の付け根までをゆっくりと、味わうように舐め上げたのだった。赤く濡れた舌に、張りついた果汁や潰れた果肉が少しずつ絡め取られていく。突然与えられた舌の柔らかな感触に、わたしは驚きのあまり言葉にならない声をあげた。

「…っ」
「…確かに、酸っぱいな」
「ちょっと、」
「それに少し苦い」

 彼はもう一度水道水でさっと手を洗い直してタオルで拭き、その足でレポートの続きを書くためにリビングへ向かって行ってしまった。わたしはしばらく茫然として、それから流しっぱなしだった水のことを思い出し、はっとして急いで手を洗った。洗ってもなお、ざらざらとした舌の感触が手にまとわりついて離れなかった。その舌が、昨日の夜は耳や、唇や、首筋や、胸や、腿や、ヴァギナなんかを舐めていたのだと思うと、体じゅうがかっと熱くなっていった。


「砂糖はたくさん入れてくれ。あとカフェオレを頼む」

 ソファに腰掛け、センターテーブルの上でラップトップを開く彼からリクエストを投げつけられ、わたしは「はあい」とリビングに向かって返事をして、調味料の引き出しから砂糖の入ったキャニスターを取り出し、タッパーにどっさり振り掛けた。それから電子ケトルにミネラルウォーターを入れ、ぱちんとスイッチを入れた。お湯が沸いたらカフェオレを淹れて、そのあとは夏蜜柑の皮でマーマレードを作ろう。明日の朝、こんがり焼いたトーストに塗って、彼と食べるために。







2019.05.29