コンソレーション
玄関に、母親のものでない女の靴が並んでいる。黒に近い、濃いブラウンのローファー。ヒールはあまり高くない。
良介は、突き当たりの部屋、グランドピアノのある練習室の扉をじっと見詰める。細長いガラスが嵌め込まれた扉の向こう側で、曲に合わせるように、ぼんやりとした黒い影が揺れる。行儀よく揃えられた靴とはまったく不釣り合いなピアノの音色が、扉から漏れ、耳に突き刺さる。がっちりとした打鍵で掴まれた稲妻のような和音、地鳴りのように響く重厚な低音、息の長いフレーズ。きこえてくる音列から「ラフマニノフか…」と呟いた。
は月に一度、良介の母からピアノのレッスンを受けている。小学生の頃に習い始め、その頃は週に一度の頻度で通っていた。現在は音楽科のある私立の女子校に通っていて、そこの常勤講師の指導を受けている。音楽の基本的な知識や技術はほとんど学校で習っているので、この家には試験や演奏会前の最終調整、演奏家としてのパフォーマンススキルを向上させるために来ているのだった。
コンサートホールと同等のグランドピアノ、サロンのような練習室を持っている碇屋家の環境は、
にとって最高の練習場所だった。それに、実力のあるピアニストの教え子というのは、それだけで充分な宣伝材料になる。
は、もう立派なピアニストの卵だった。
ソリストはいつも孤高だった。舞台の上でたったひとり、大勢の他人の前で自分の力を示す、或いは自分のビジョンを表現すること──
も良介も、ひとりという点では同じだった。誰も追いつけない、もっともっと高く、遠いところへ行きたいのに、走り抜くのはいつだって不安で、つい周りを見渡して、仲間を探してしまう。
と良介は知らず知らずのうちに互いを意識していた。互いがつねに孤高であることを認識して、安心したかった。
「おい、ヘタクソ」
練習室の厚みのある扉を力任せに開け、良介が
の演奏を制止する。あまりに集中していた
は、肩を引かれるまで気がつかず、驚いて目を丸くした。硝子玉のような彼女の目と、良介の切れ長の目が、かちりと合う。
の手が、鍵盤から引き離されていく。
「良介くん、おかえりなさい」
「なんでお前しか居ねえんだよ」
「碇屋先生は、ちょっとだけ楽器店へ行くって言って出掛けちゃった」
「あっそ」
留守番中だという
は、ふたたび鍵盤の上で右手を動かしはじめた。
はいつもハノンのピアノ教本を持ってくる。練習のいちばん最初にスケールとアルペジオのページを、曲と曲の合間には思い出したように三度和音の半音階を弾く。機械的なまでに正確なテンポで、指先の感覚を確かめるように。
良介には、この時点で
のコンディションが分かってしまう。調子の良いときは丸くクリアな音が、悪いときは針のように鋭く、ヒステリックな音がする。今の演奏はきっと、悪いほう。
「試験前だからって追い込み過ぎだろ」
「……」
「ほかの曲弾け、お前の好きなやつ」
「えっ」
「昔よく弾いてたの、あんだろーが」
良介の命令のような言葉に、
は椅子に座ったまま、ぼうっと視界の右上の虚を見詰める。いきなり自分の試験曲に文句を言われて、他の曲を弾けと言われても、なかなか直ぐには思い浮かばない。膝の上に置かれた指先を小指から親指へ、順に動かしていく。わたしの、好きな曲…。
「あ…」
一度大きく息を吸い込み、鍵盤の上にそっと乗せられた
の手は、ゆったりとしたテンポで前奏を描き出した。その曲は、
の手に、からだに染みついていた。楽譜など見なくとも、容易に弾けた。
手のひらの中に空気を留め、それを潰してしまわないよう、ふんわりと丸められた手から奏でられる音たち。浅く柔らかな左右のペダリング。細く、それでいて芯のあるピアニシモ。呼吸するように流れるメロディー。まるで青く広い海のような、一音一音を慈しみ、愛に満ち溢れた優しい音色。良介は
のそういう音が好きなのだった。技術だけでない、衷心から音楽が好きだということ。
良介は肩に掛けていた鞄を床へ下ろし、傍らのスツールに腰掛けて、目を瞑って聴いた。
自分の中に渦巻いていた孤独感や、罪悪感といった負の感情が、
の音に抱きすくめられ、すっと浄化されていく。たった3分半の曲のなかでふたりは、楽園にいるかのような気分だった。
S.Rachmaninov: Etudes-tableaux Op.39 No.9
F.Liszt: Consolations No.3
2019.02.26