Just friends







 あんたたち、別れたんじゃなかったの?
 友だちに言われて、わたしは平然として、別れたよ、と返す。じゃあなんで先週の夜、公園にふたりでいたわけ? とまた訊かれて、呼び出されて話してただけでべつになんにもないよ、と苦笑いした。女っていうのは男の話になるとどうしてこんなにも騒ぎ立てるのだろう。わたしたちのことなんて、付き合っていたって別れていたって、どっちでもいい、否、どうでもいいと思ってるくせに。きっとわたしのことをはっきりしない愚図な女とでも言いたいのだろう。別れたふたりが一緒にいることは、そんなに悪いことですか?



***




 源一郎とは1ヶ月前に別れた。それ以降、わたしたちは恋人どうしから、友だちになった。だからといって、関係性もわたしの彼への気持ちも、とくに大きく変わったことはなかった。彼が別れようと言ったとき、わたしはまだまだ彼のことが好きで、離れたくなくて、でも嫌われたくもなくて、涙がとまらなくて、プライドなんて最初からなかったみたいにぜんぶ投げ捨てて彼に縋りついた。そうしたら、彼はにっこりと笑って、「別れても、俺とは今まで通りだ。会いたくなったら連絡する」と言って頭を撫でてくれた。

 彼は、まだ18年しか生きていないわたしのすべてだった。そんなふうに思っていた。
 部活のない日なんかはわたしの学校までわざわざ迎えに来てくれて、校門の前に青函のサッカー部の人がいる、とたくさんの女子生徒が彼へちらちらと視線を送ってはしゃいだ声を上げているのを見て、わたしは苛立ちと優越感とを同時に抱いた。いいようのないしあわせが、体じゅうに染み渡ってゆくのを感じた。
 また、わたしが彼の学校まで迎えに行くこともあった。グラウンドの端の茂み、裏口の近くにあるタバコ小屋と呼ばれる古びたトタン屋根の小屋の陰で彼を待っていると、突然、彼の後輩らしき、サッカー部のジャージを着た長い黒髪の男の子が顔を覗かせ、「平さんの女すか?」と訊ねてきて、そうですとも違いますとも言えずに戸惑っていると、後ろの方から彼の右足が伸びてきて、鈍い音とともにその男の子は膝をつき崩れ落ちていくのだった。



 わたしたちはほんとうに相変わらずだった。別れてからお互いの学校まで迎えに行くことはなくなってしまったけれど、駅やコンビニなど、かならずどこかで待ち合わせをして、これまでどおり、商店街や公園をあてもなく歩くこともあったし、部活終わりにファミレスで向かい合ってごはんを食べることもあったし、放課後お互いの家に遠慮なしに入ることだってあった。だいたいの口実は「一緒に勉強をしよう」というものなのだけれど、付き合っていたときも別れてからも、お互いの部屋で教科書を広げたところで、勉強なんて一度もやったためしがなかった。部屋に入ってしまえばやることはわかりきっているのに、それでもやっぱり良い子を気取って見え透いた嘘をついてしまうのだ。彼の乱暴なセックスはいつだって自分本位でとても愛のあるものには思えなかったけれど、それでもやらないよりは全然ましだった。そのときだけは恋人どうしだった頃のように、自分が必要とされているような気がして、なにより彼の肌に直接触れられることにうれしささえ感じられた。



***




「鹿島に入ることにしたよ」

 ドリンクバーからなみなみ注いだコーラを持って戻ってきた彼が、目も合わせずに言った。わたしはまだ熱をもったコーヒーカップに口を付けられないまま、ぼんやりと彼の挙動をながめた。切り揃えられた前髪の毛先が微かに揺れ、ようやく目が合う。

「プロになるんだね、よかったね」
「これからは選手権も始まるから、忙しくなる」
「それって、会えなくなるってこと?」
「そういうことだな」
「源一郎も大変だね」
はどうするんだ」
「なにが?」
「自分の進路や、将来のことさ」
「うーん…」

 あまり自分の将来について真剣に考えたことのなかったわたしは、源一郎にそう言われたところで、なんのビジョンも描けなかった。将来の夢。すこしの沈黙があって、そのあいだにいろいろと考えを巡らせてみたけれど、なりたい職業も、やってみたいことも思いつかなくて、そのかわりに、安心したい、と思った。こんなふうな曖昧な関係から脱却して、源一郎がずっと隣りにいて、わたしはずっと笑ってて、そのときにふと気がついた。わたしがなりたいのは、ちょうど過去のわたしだった。


「近くの大学か、専門学校にでも行こうかな」

 源一郎は大きなため息をついて、「お前はもっと自分の意思を持った方がいい」と呆れた。言われてみれば今の学校も、家から通いやすいことと両親からのすすめもあり入学を決めたのだった。源一郎と出会ったときも、彼の饒舌な、回りくどい告白──さながらテレビの中の政治家のような、今になってみればあれが告白だったのかどうかもよく分からない──に流され、付き合ってからも彼の多情な性格や強引な振る舞いに何度も反抗しようとしてできなくて、結局は彼の思うままになっていることがしばしばあった。別れるときも、そうだった。


「東京の大学へ行ったらどうだ」

 ぬるくなったカップを持ち上げ口元へと運んだとき、彼が思いついたように話し出した。わたしが描けなかった今後のこと。将来のこと。選択肢にすら上がってこなかった、東京という都市の名前。どうしてなのか、理由は訊けなかった。訊いても答えてはくれないような気がしたし、訊くだけ無駄なような気もした。それに、なんとなく分かっていた。自分のことを好きでいてくれる女を、できるだけ近くに置いておきたいのだ。近すぎず、遠すぎずのところ。必要なときに、必要なだけ与えあう関係。彼の身勝手な言動にうんざりしつつも、心の片隅ではわたしのことをほんの少しでも気にかけてくれたことに悦んでいた。

 わたしは左手首に巻かれた腕時計をじっと見詰めた。それは、かつて恋人どうしだった頃、源一郎が誕生日プレゼントにと買ってくれたものだった。あまり派手なデザインでないためにどこへ行くにもつねに身につけているから、ベルトの革はくたくたになって手首に柔らかく馴染んでいる。文字盤をそっと指で撫でていると、テーブルの下で返事を催促するように、彼の大きめのスニーカーのつま先がわたしのローファーにこつんと触れた。

「かんがえとく」

 顔を上げ、ほほ笑みながらそう答えると、源一郎はひどくつまらないとでも言うような表情で「そうか」と言い、コーラを飲み干して、「今日はの家で課題をやろう」とテーブルの脇に差し込まれた伝票を摘んで、従容とした態度で席を立った。
 わたしは、ほんとうは彼に、もう一度やり直そうと、面と向かって言ってほしかった。ただ、もう一度付き合おう、と言ってやさしく手を握ってほしかった。会うたびに、いつかそのひとことを言ってはくれないかと、ずっと待っているのだった。そしてそんな薄っぺらな希望をカップの底に残したまま、今日で最後になるかもしれない彼を部屋へ入れるのだ。







2019.05.28