今日だけの恋人
※後味の悪い話
水曜日。23時半をすこし過ぎた頃、スマートフォンが震え、画面が光った。通知は源一郎からだって、見なくても分かる。
[今から行く]
絵文字どころか、句読点すらない文章にあきれてしまう。あきれてしまうのに、わたしのなかのもう一方の心は踊っていた。これまでにも断るタイミングはあったはずなのに、自分からそれをしようとしなかった。だって、源一郎のことが好きなのだ。
彼からの不躾な連絡を既読のままに放置して、5分。それでもやっぱり従順な脚は玄関へむかう。そうっと音のしないように鍵を解くと、門の外、ブロック塀に背を預けていた源一郎が顔を上げ、近寄ってくる。
「遅い」
「…部屋、片づけてたから」
言い訳などどうでもいいと言うように、源一郎は耳に引っかけていたイヤフォンを外してずけずけと中へ上がり込む。キッチンで冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを持ち出し、その手でカウンターテーブルのバスケットから私の翌日の朝食でもある菓子パンを盗む。慣れた手つきで。源一郎はこの家の勝手を知っている。
彼は分かっているのだ。毎週水曜の夜、わたしの母が恋人のもとへ出掛けること。そしてそのまま翌日の昼まで戻ってこないこと。
わたしの部屋にはソファがない。クローゼットのない4畳半ほどの部屋にベッドと勉強机、テレビ台を置いてしまえばもういっぱいだった。
源一郎はベッドの上に胡座をかいて、壁を背もたれのように使ってわたしの菓子パンを食べる。パンの屑がシーツにこぼれてしまわないか、心配になる。源一郎はわたしの冷ややかな視線を無視して、あっさりと菓子パンを平らげてしまった。日当たりの悪く狭いこの部屋では、物を食べたり、雑誌を読んだり話をしたり、セックスをするには、必ずベッドの上でなければ叶わなかった。
右手でシーツの皺を払って、源一郎のとなりに座る。シーツの淡いブルーが、ふたりのまわりを波打つ。ふたり揃ってしまえば、結局することはひとつだけだった。
源一郎は、セックスのとき、電気を消してくれない。彼に言わせれば「感じてる顔を見たいから」だそうだ。わたしからすれば羞恥以外のなにものでもないのだけれど。
押し寄せてくる心地よさに目を瞑ると、触れた瞬間から熱が溶けだしていく。ブラウスのボタンをひとつひとつ外され、日焼けを知らない白い肌が源一郎の前に晒される。腰のくびれを撫でられて、くすぐったさと恥ずかしさとで胸元に手を寄せ身を捩る。
「…喉が渇いた」
突然、耳元で低い囁き声がして、閉じていた目を開ける。源一郎がペットボトルの蓋を捻り、ミネラルウォーターを喉へ流す。先ほどのムードがすっかり崩されて、拍子抜けしてしまう。大きく上下する喉仏が、わたしをふたたび煽情的な気分にさせた。
「続き、しないの?」
短い問いかけに、源一郎の目つきが変わったのがわかった。返事のかわりに長く乱暴なキスをされ、菓子パンの甘い風味が、唇からわずかに伝わってくる。そのまま強引にベッドに縫いつけられて、唇、耳、それから首筋を通って鎖骨へ、源一郎の舌がゆっくりと移動していく。なんだかカタツムリみたい。くらくらする頭から浮かんだ想像は、絡み合う熱の隙間から喘ぎとなって出ていった。
ふと母のことを思い出した。母もわたしたちのように、恋人と甘い蜜のような時間を過ごしているのかしら。スプリングのきいたベッドの上で、どんなふうに話し、どんなふうに抱かれ、どんなふうになくのだろう。わたしの知らない母。わたしの知らない女のひと。考えれば考えるほど、孤独を感じてかなしくなった。
「
」
「ん…」
「舌、出してみろ」
源一郎の一言が、わたしを呼び戻す。ほとんど命令に近い投げ掛けに、ぼんやりとした思考で応じる。力なく舌を差し出すと、源一郎が自らの舌を合わせた。ざらざらした舌の、しっとりとした感触。合わせる度に水っぽい音がして、ひどく官能的だと思った。互いの舌の形を確かめながら、互いの唾液を絡め取っていく。
無意識のうちに流れたひと筋の涙。この夜だけは、自分がひとりぼっちじゃないと思える。たとえわたしが恋人じゃなくても。源一郎のあの悪魔的な常套語が、わたしを束の間の幸福へ連れていってくれる。
「今日だけ、
は俺の彼女だ」
力任せに体勢を変えられ、片脚を持ち上げられて、腰を進め突き上げられる。気持ちいい。彼の手を握りながら、馬鹿のひとつ覚えのように、何度も何度も繰り返した。
2019.02.14