レモン・オア・ミルク
窓の外のネオンサイン、BGMの流行歌、エントランスの、つやつやした安っぽい合成皮革のスツール。
わたしはすこし飽きていた。薄暗い箱のなかで不気味に光るテレビの画面も、鼓膜をふるわせるマイクの音声も、むせかえるような煙草とヒトのにおいも。
クラスメイトの、いつも昼食を一緒に食べるメンバーからカラオケに行こうといわれて、断る理由もなくついてきた。久しぶりのカラオケで最初はきもちよく歌えたのだけれど、3曲ほどしたところでふと我に返って思った。どうにか嘘でもついて断ればよかった。もともとカラオケはそんなにすきじゃない。
1人がマイクを持って、一生懸命に歌詞の画面を見ながら歌う。ほかの子たちはそんなこと気にもとめないで、つぎに何を歌おうか、小さなモニターに食らいついている。なんだかひどく寂しい気持ちになった。
「…ちょっと、トイレ行ってくるね」
密室の息苦しさに耐えられなくなって、部屋を出る。廊下も決して空気が澄んでいるわけではないけれど、一度だけ深呼吸する。ひんやりとした空気が肺を満たしていく。扉の隙間から漏れ出るJ-POPのリズミカルなメロディー。音程の合わない声。
「
さん?」
よく知った声がして振り返ると、臼井くんだった。奥の大部屋の扉の脇に、背中を壁にあずけて、もたれるようにして立っている。ワンウォッシュのジーンズに白いシャツ、足元はサイドゴアのショートブーツ。至極シンプルな恰好なのに、清潔感と品がある。
「偶然だね」
「ね、ほんと。臼井くんがカラオケボックスにいるなんて、びっくり」
「今日、祝勝会だったんだ。その流れでね」
「そっか。おめでとう」
「ありがとう」
サッカー部は全国大会に進むことが決まった。都大会で強豪の東院学園を破り、優勝したのだ。校門の横には全国大会出場を祝うおおきな横断幕が掲げられていた。昨日の朝礼でも担任が話題にしていたし、ずっと前からのファンの子や、ここ最近ですっかりファンになった子、いろんな女の子たちが臼井くんに声をかけていた。
臼井雄太くん。
学校で彼の名前を知らない女の子はいないはず。だって、髪もきれい、顔もきれい、からだはきれいな男の子のかたちをしていて、サッカーが上手で、勉強もそこそこできる。部活では厳しい言動もあるようだけれど、教室ではとても穏やかで、落ちついていて、だれにでもやさしい。
それから臼井くんは、わたしのことを
さんと呼んでくれる。それはわたしと同じ苗字の子がクラス内にもうひとりいるからなのだけれど、わたしはこのこと──臼井くんが名前で呼んでくれること──をとてもうれしく思ってしまう。ほかの子たちとはちがう、なにか特別な存在のようで。
「
さんこそ、カラオケに行くようなタイプに見えないけど」
臼井くんは壁にもたれ掛かったまま、じっとわたしを見つめる。わたしのなかのほんとうのことを引っ張り出そうとしているみたいに。
「じつは、お昼のメンバーで来てるんだけど何曲か歌ったら飽きちゃって、ちょっと休憩しようかなって…」
うつむいたまま視線を床へと逃がす。絞り出すようにして紡いだことばは、緊張でかすんで消えてしまった。
「それじゃあ、いまから抜け出さない?」
ふたりで。
臼井くんの口角が上がる。まるでなにか思いついたように、子どもみたいに目を細めて。もたれていた背中が壁から離れ、骨ばった手でシャツの裾を軽くはたいて伸ばした。
「えっ」
「
さんが嫌ならいいんだけど…」
「う、ううん。行く! 鞄とってくるね」
ちょうど俺もすこし疲れてきたところだったから。
臼井くんはやさしい声で言った。
廊下でふたりだけのスリリングな約束をして部屋に戻ると、友達の一人が
の番だよ、とマイクを向けた。わたしはとっさに、バイト先の先輩に呼び出されたと嘘をついて、急いで鞄を抱えて部屋を出た。テーブルに、少し多めの金額を置いて。
白のハンドニットのカーディガンを雑に羽織り、キャメル色のチェックのストールを巻く。途中、窓ガラスを鏡のかわりにして前髪をさっと整えた。さっきから心臓の音がうるさい。
エントランスに向かうと、すでに臼井くんが待っていた。ネイビーのジャケットを羽織っている。
「ごめんね、遅くなって」
「全然平気だよ。とりあえず、出ようか」
寒いねと言いながらあるく臼井くんの半歩うしろをついていく。ぱたぱたとバレエシューズの踵を鳴らして、駅の南口のほうへ。臼井くんはあるく速さをわたしに合わせてくれて、わたしが車道側に行ってしまわないように気づかってくれた。きっと、女の子たちはこういうところに惹かれてしまうのだろうなあ、とぼんやり考えていた。
「なんて言って出てきたの?」
「バイト先の先輩から呼び出されたって言った」
「ひどい先輩だな」
臼井くんはくすりと笑った。そういう臼井くんのほうはなんて言って出てきたのかとたずねると、俺くらいになるとなにも言わないでも大丈夫なんだとまた笑った。意味がよくわからなくて、本当に? ときくと、堂々とした口調で気にしなくていいと言われた。
「
さん、まだ少し時間ある?」
唐突に聞かれて、左にしている腕時計を見ると、針は21時をすこし過ぎたところだった。大丈夫と伝えると、臼井くんはにっこりと微笑んだ。
「よかった。この近くにときどき寄るカフェがあるから、少し休んでいこうか」
「…うん」
そのカフェは雑居ビルの2階に入っている、本のたくさんあるカフェだった。出入り口には観葉植物の鉢植えがたくさん並んでいて、ちいさいのからおおきいのまで、さまざまな種類の葉がついていた。店内は黄色いペンダントライトがいくつも垂れ下がっていて、文字が読める最低限の明るさしかなかった。臼井くんはかえってこのくらいの明るさのほうが集中できるのだと言った。
女性の店員さんが、わたしたちを窓際のカウンター席へと導く。板張りの床がきしむ音がして、でもそれがわたしたちを安心させてくれた。
壁じゅうが本棚みたいになっていて、いろいろなジャンルの本が並んでいる。雑誌から、文庫本、辞書、画集まで。それらを手にとって眺めているひともいれば、喫煙席で煙草をくゆらせているひともいた。このお店に来ているひとたちは、だいたいひとりかふたり組だった。
わたしたちは案内されるままに、カウンター席にならんで座った。
道路に面したこの一面だけはガラス張りになっていて、外の景色がよく見える。何度も横切るタクシー、電話をしながら歩くスーツ姿、大げさに笑いながら通り過ぎていくカップル。窓ガラスから伝わるほんの少しの冷気が、わたしの火照ったからだにはちょうどよかった。
席へ案内してくれた店員さんが、メニューを手渡してくれた。飲みもののメニューと食べもののメニューが別々の冊子になっていて、小さなアルバムみたいでかわいい。臼井くんはメニューを見ないでブレンドコーヒーひとつ、と言った。
「わたしは…」
あわてて飲み物のメニューをひらくと、ティーカップの写真が目に入った。レモンの輪切りが浮いていて、写真の右下に「アールグレイ、レモンorミルク」と書かれていた。
「わたしは、アールグレイの、レモンで」
ティーカップは白くて、やわらかな丸みがあって、手によく馴染む。まずは何も加えずにひとくち飲んだ。ベルガモットの香りがすっと鼻に飛び込んでくる。
「レモンティー、好きなの?」
「えっ、なんで?」
「よく昼休みにも飲んでるだろ。紙パックの」
「あれは紅茶じゃないよ。ジュースだよ」
臼井くんは笑いながら、そうなのかと言った。だって紙パックの紅茶は、紅茶の味がぜんぜんしないんだもの。スライスされたレモンを一切れ、角砂糖と一緒にずぶずぶと沈めた。
頼んだ飲みものが冷めてしまうくらいに、わたしたちはとりとめのない話をした。今日一緒にカラオケに行ったクラスメイトが、彼氏が出来てからすっかりはまってしまい性格まで変わってしまった話だとか、期末試験の結果が散々だった話──臼井くんは全科目平均点以上だったらしい──だとか、サッカー部のメンバーの話をした。サッカーの話をしているときの臼井くんがいちばん楽しそうだったので、すこしうらやましい気持ちと、この時間を楽しんでくれていることに安心した気持ちとがわたしのなかをぐるぐるとまわっていた。
「
さんは、サッカー詳しい?」
「ううん、全然。たくさんゴールしたほうが勝ちってことだけわかる」
「はは。それは、そうだな」
ティーポットの残りのアールグレイをすべてそそいで口元へとはこぶ。
わたしたちの学校はサッカー部が強いというわりに、全校生徒で応援に行くことはほとんどない。もちろんわたしはサッカーのことはよくわからないし、サッカー部の公式戦を見に行ったことは二、三度しかないけれど、放課後のグラウンドで水樹くんたちが走りまわり、ゴールしている姿をよく見かけた。まっすぐに、弾丸のように突き刺さるシュートだった。
「俺は、水樹みたいに派手なことはしないが…」
ちょうど水樹くんの練習風景を思い出していたところだったから、頭のなかをすっかり読みとられてしまったのかと思った。
「もしよかったら、こんどの全国の試合、見にきてほしいんだ」
「……」
「
さんに、きてほしい」
わたしは黙って、こくりと頷くことしかできなかった。
カップの底、角砂糖なんてとっくに溶けきっているというのに、ずっとずっとかき混ぜてしまう。窓の外、真っ黒な夜空には砂糖をばら撒いたように星がたくさん。このお店の照明が薄暗くてよかった。きっとわたしの顔は真っ赤になっているにちがいない。まだ、心臓の鼓動がからだじゅうに響いていて、うるさい。
2019.02.06