そば(温かくないやつ)
※プロヒーロー設定
※文中の店舗や施設はすべて捏造しています。








 西富士道路を朝霧方面へ向かう。視界の両脇、林のなかの広大なゴルフ場では、何台ものカートが往き来している。この時間帯にすれ違う乗用車は少なく、大型の商用トラックばかり走っていた。風に揺られ、真っ直ぐな道を砂煙が舞う。遠くの山々の輪郭を目でなぞれば、空の青と森の緑のコントラストが眩しい。聳え立つ富士山を間近にしながらわたしたちには今さら感動もなにもないのだけれど、白く化粧の施された頂上は何度見ても美しく、おそろしいほどに圧倒されてしまう。

 運転席の焦凍は、わたしを家の前で拾ってから、黙ってハンドルを握りつづけている。助手席に乗り込んですぐに「いつものとこでいいか?」と訊ねられ、返事のかわりに頷いたら、それ以降なんの言葉もなくなってしまった。それなのに、この車内の空気の感じがわたしをこれ以上ないくらいに幸せな気分にさせた。プロヒーローになって各地を転々と飛び回り、すっかり忙しくなってしまった彼が、わたしのために時間をつくって帰ってきてくれたのだ。平日の、真昼間という世の中のいちばん安全と思われる時間帯を狙ってくるところが、彼らしいなと思った。



 森のなかを掻き分けるようにつづく一本道の途中に、一軒の飲食店がある。すこしくたびれた外観のその店は、小さな看板しか目印のない、隠れ家みたいな定食屋だった。
 焦凍の言う「いつものとこ」とは、この店のことだ。

 いつの日だったか、もう忘れてしまったけれど、彼が車の免許を取ってはじめてふたりでドライブに出かけたとき、偶然通りかかって訪れたのがこの店だった。隠れ家みたいだけれど、実際にはそこそこの人気があって──というのも、まわりに他の飲食店が少なく、距離もあるためにこの辺りにドライブに来る人たちはたいていこの店に寄るのだ──正午にはあっという間に満席になる。何度か通って学習したわたしたちは開店時刻より少し早めに到着して、外のベンチで時間を潰した。


 店の扉が開き「いらっしゃいませ」と声をかけられ、店内に入る。わたしたちよりも先に待ち合いに居たふたり組の年配の男性客が迷わずカウンター席へ向かった。座ったのと注文の声がほとんど同時だったから、おそらく常連なのだろう。わたしたちは奥の座敷席に座った。上がり框の脇に靴を揃えて脱ぎ、深蒸しの緑茶のような色の座布団に腰を下ろす。
 焦凍が車の鍵をテーブルの隅に置き、ようやく口を開いた。

「俺は十割蕎麦にする。あと、蕎麦がき。は?」
「わたしも」


 この定食屋のいちばんのおすすめは定食ではなく、蕎麦だった。それを決定づけるように、この店に来るどの人も蕎麦ばかり注文していた。はじめは、蕎麦屋でないのに蕎麦がきまでメニューに含まれていることにわたしも焦凍も驚いたのだけれど、試しに頼んでみると本当においしくて、ふたりして感激したのを覚えている。富士山の天然水を使っているという本格派の手打ち蕎麦はとても瑞々しく、ふくよかで香り高く、店の主人のこだわりを十分に感じられる繊細な味だった。


「仕事はどう?」
「今はかなり落ち着いてる」
「そう…良かった」
「だから、こうして休みも取れた」
「うん」

 先に運ばれてきた蕎麦がきを箸でひと口大に切ると、彼も同じように箸で切り分け、醤油を付けて口へ入れた。鼻腔を抜けて、ふんわりとあたたかな蕎麦の香りが広がる。餅ほど粘っこくなく、なめらかな舌触りをしている。


 ヒーローは不定休あるいは年中無休なので、彼はいつも突然に帰省した。今回も三日ほど前に連絡が入り、わたしは居ても立っても居られず、すぐに職場へ有給休暇の申請をした。

「髪、伸びたな」

 焦凍が豆皿の上で山葵を醤油に溶かしながら言う。俯き様に放たれた優しい声に、ぎゅうっと胸が締めつけられる。

 ちょうど蕎麦がきを食べ終える頃、平たいざるに盛られた十割蕎麦が運ばれてきた。水に晒されきらきらと絹のように輝くそれは、はじめて食べたときと同じ感動があった。わたしも焦凍も、最後に出された蕎麦湯まですべておいしくいただいた。しかしながら、結局、彼とは食事中もあまり会話という会話をしなかった。おいしいものを食べるとき、わたしたちはいつも黙々と箸を進めるのだった。



***




 会計を済ませて、ふたたび車に乗り込む。車中はやっぱり幸福な沈黙に包まれていた。
 お腹いっぱいになったわたしたちは休憩を兼ねて田貫湖に寄り、少しだけ周辺を散歩した。焦凍は湖畔でテントを張っていたキャンプ中の家族連れに声を掛けられ、子どもたちにサインを書いて渡したり、コンロに火をつけてあげたりした。彼らの喜ぶ顔に、わたしたちもうれしくなって笑った。

 帰りは東名高速道路を使った。インターチェンジの降り口付近にあるホテルに入り、スプリングの軋む、硬く安っぽいベッドの上で心地よいセックスをした。からだを合わせること自体が久しぶりだったので、欲望のままにキスをして、何度も何度も抱きしめ合った。彼はわたしのからだを丁寧に舐めてくれたし、わたしも彼を割れ物に触れるみたいに優しく扱った。


「…あのご飯屋さん、次はおかあさん連れて行きたいね」

 情事のあと、焦凍の腕の中で今日のランチの場景を思い出す。彼はわたしの伸びた髪を梳きながら、そうだな、と呟いた。暗がりの部屋、ぼんやりとほほえんだ横顔が見えた。



 焦凍はきちんと夕食の時間に間に合うようにわたしを帰してくれた。自宅前に車が横付けされたとき、またしばらく会えない日がつづくのだと、途端に離れるのが惜しくなった。



 助手席から降りるのを躊躇っているわたしのつむじの上に、彼のあたたかい手のひらが重ねられた。泣いている子どもを宥めるように柔く撫でられて、少しくすぐったい。

「今度はもう少し早く連絡する」
「うん。今日はありがとう。仕事、頑張ってね」
「…お前も無理すんなよ」


 エンジンの音がしだいに遠くなっていく。わたしはまた、彼に好きと言いそびれてしまった。







2019.03.19