髪を梳く
わたしは毎晩、リビングで髪をかわかす。お風呂あがりに、湿気のたまった洗面室でドライヤーをつかうのがあんまりすきじゃないのだ。それに、彼と生活をはじめるずっとまえからこのやりかたでかわかしてきているので、からだが慣れてしまっていて、いまさらそれを変えることはむずかしい。
バスタオルでからだをつつむように拭き、それから、髪の水気をとる。そうして洗面台の横のラックからヘアオイルをとりだし、2回ほど押して、まんべんなくなじませる。このヘアオイルはとても優秀で、なじませただけでもさらさらとして、しなやかな指どおりになる。それに、雨の日でも湿気に負けることなく、うつくしい仕上がりをたもってくれる。梅雨の時期に、雄太くんに1度貸してあげたらひどく気にいったようで、それ以降、雨の日の外出のまえには、かならずつけていくようになった。わたしだけのものが、ふたりのものにかわっていく瞬間。その瞬間が、たまらなく愛おしい。
ブラシをつかって髪を梳き、いまだ水分の多い根元に、ドライヤーをあてる。ファンやモーターの駆動音が、嵐のように部屋じゅうに鳴りひびく。かわかすときにはいつもいちばん風量のつよい設定にしているので、ノズルをむけただけで毛先がおおきくはためいた。
慣れというものは、ときどきわたしをびっくりさせる。となりでこんなにも騒音を出し、うるさくしているというのに、雄太くんはまるで山のように、まったく動じない。そのうえ平然として、ノルウェイの森なんかを、真剣な顔つきで読んでいるのだ。慣れというものは、おそろしい。
そんなことをおもいながら、ドライヤーをかけつづける。おもてはすこしずつかわいてきたけれど、内がわはまだしっとりと湿っていて、風にゆれる柳の枝のように毛束がばらばらとうごいた。
「それじゃあ、どこが顔だかわからないな」
右から、雄太くんの声がした。まるみのある、はずんだ声の質から、彼が笑っているのだとわかる。風の音にかき消され、きこえないふりをすると、やさしく腕を叩かれ、俺に貸して、といわれた。
電源をきって手渡すと、雄太くんは左の手で受けとり、右の手に持ちかえて、ふたたび電源をいれた。左の手のひらで熱さをたしかめて、それから、わたしの髪にあてていく。
雄太くんは、かわききるまでていねいにわたしの髪を梳いてくれた。まず前髪に風をあて、しっかりと癖を伸ばしたあとで、横やうしろ側の髪にも順番に風をあてた。
美容室でブローしてもらうときにもおなじことをおもうのだけれど、ひとに髪をかわかしてもらうのは、とても気持ちがいい。わたしは髪を撫でる彼の指のうごきや、風の音をかんじながら、明日の朝食のメニューはなににしようかと、ぼんやりかんがえていた。
たっぷりと水と含んでいた髪は、ふんわりとかわかされ、うつくしくまとまっている。自分でするのとはまるでちがう仕上がりに、このまま出かけてしまいたくなった。タオルをかかえ、雄太くんのほうへむきなおって「ありがとう」とお礼を言うと、彼はちいさく手まねきして、わたしの肩を抱いた。
「
」
名前を呼ばれ、どぎまぎしつつまえをみると、彼はうつむいて、わたしの髪を指ですくい上げ、自らの口元へ寄せた。そうして口づけたままゆっくりと、深く、ながい呼吸をした。
目のまえのきれいな顔に、わたしは息をのんだ。閉じたまぶたからすっとのびた睫毛、ととのった鼻筋、骨ばっていておおきな手、それでいて細くながい指。
雄太くんは、どこもかしこもきれいなつくりをしている。
彼の指が、わたしの、寝巻がわりのTシャツのなかへと入っていく。腰のくびれをなぞり、胸に触れる。くすぐったくて身を捩ると、顎をささえてキスをされた。
「恥ずかしいのか?」
そうきかれて、ふと、付きあいはじめのわたしたちのことをおもい出した。
なぜ、こんなにもきれいで完璧なひとが、わたしのことなんかすきになったのだろう。当時は、毎日毎日、そんなことばかりおもっていた。まわりの女の子たちの視線がうとましく、憂鬱な気分のわたしに、彼はいつも、
だから好きなんだ、といった。
でなければ、意味がないんだ。
「付きあいはじめの頃は、もっと恥ずかしがってたなあ、と思って」
「あの頃の
は、すぐ耳まで真っ赤になって、わかりやすかったな」
「なにそれ…」
「ほんとうのことじゃないか」
たしかにあの頃のわたしは、雄太くんが1枚ずつ服を脱がしていくたびに、恥ずかしさのあまり顔を真っ赤に染めて、目をぎゅっとつむるのだった。いまのわたしにはもう、そういった初々しさはなくなってしまったけれど、それでも、彼をおもう気持ちはかわらない。
「だって、雄太くんが恥ずかしいことばっかりするんだもの」
「俺のせい?」
「そうよ、雄太くんのせい」
「それなら
、これから、もっと恥ずかしいことしようか」
そういってわたしの髪を撫で、透きとおるような色をした彼の前髪が、かすかにゆれる。その奥の、熱のこもった瞳にとらえられてしまえば、もう逃れることなんてできないのだ。
2019.05.14