巻きもどして、もう一度
夜。
雄太くんが、録画しておいたチャンピオンズリーグの試合を再生して、ピノ・ノワールのボトルをあけた。リーデルのペアグラスに少量ずつそそいで、ドライフルーツの盛られたプレートとともにセンターテーブルの上におく。ワインの深い赤とグラスごしの画面にうつる芝の緑、その上を走りまわる選手たちの、あざやかな赤や蛍光色のユニフォームが目にとびこんできた。
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今日は天気がよかったので、朝からそうじと洗濯をすませた。水場を入念にみがき、ソファカバーやベッドリネンをまとめてあらって、ベランダに干した。それから昼食にサラダと雄太くん特製のカルボナーラをたべて、カフェオレをのみ、表参道まででかけた。
彼のおめあてはメゾン・マルジェラのシャツだった。前々から気になっていたというので、このさい試着でもしてみたら、というとすぐに出かけるしたくをはじめて、クローゼットから服を引っぱり出してコーディネートになやんだり、ていねいに髪をセットしたりするそのすがたが遠足の前の子どもみたいにはりきっていてかわいかった。わたしもお財布やバレエシューズをためしたかったので、よろこんでついていった。
お店についてみると、わたしのサイズのバレエシューズは品切れでためすことすらできず、お財布は気にいった色のものがなく、彼だけがじっくりとシャツをえらび、サイズやカフス、襟のほそさなどをひとつひとつ確認して、着まわしのききそうな、シンプルな白のそれを購入したのだった。
片手にもたれた紙袋をながめ、うらやましくおもっていると、彼が見透かしたようにわらいながら「紅茶でも買って帰ろうか」というので、わたしはとたんにうれしくなって、重かった足どりはすっかり軽快になった。それからマリアージュ・フレールに寄り、パリ・アールグレイとマルコ・ポーロを100グラムずつ買ってもらった。
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「首のうしろのところのステッチが、かわいいよね」
たたみ皺がつかないよう、家に帰ってすぐに袋から出し、コートフックにだいじにつるされたシャツをみてわたしがいうと、彼は、そんなことはあたりまえで、この細身のシルエットやすっきりとした襟なんか、ミニマルななかにマルジェラらしさをかんじさせるとてもいいデザインだろう、と流暢に話しだしたものだから、いつかのわたしの誕生日にもなにか買ってもらおうとかんがえた。
「リヴァプールはこのゴールで流れに乗ったな」
そういって、雄太くんがグラスをゆらし、ひとくちふくむ。舌の上でゆったりところがして、嚥下する。わたしはうっとりとした表情で、となりの彼の横顔をながめる。
正直なところ、わたしにサッカーの知識はあまりないから、どの選手がどんなふうにすごいのかはよくわからないけれど、目をかがやかせて、昔の、彼がまだ中学生や高校生だったころの、サッカーのことしかかんがえていなかったころによくみせていたんだとおもう表情を浮かべているのをみると、このひとはほんとうにサッカーがすきで、サッカーのおもしろさや、くるしさや、たのしさを、身をもってしっているのだなとおもい、わたしは胸がぎゅっとなり、抱きしめたいほどいとおしいきもちになった。
雄太くんは、授業のない曜日やゼミのあとに、大学のちかくにある総合スポーツセンターで学生講師の仕事をしている。おもに小中学生を対象としたサッカー教室でおしえていて、休日、いっしょに食材の買いだしにスーパーへ行くと、ときどき彼の教室の生徒だという子どもがあいさつをしてくれるのだった。学年が上がれば上がるほど雄太くんも気合いが入るようで、この前は中学生相手につい本気を出してしまったといっていた。
最近では学部生の就職活動がはじまったことにより、スケジュールによっては体操教室をてつだったり、人手のたりないときなんかは昼間の幼児むけの水泳教室や、ヨガやジムの受付もまかされたりしているようだった。彼が受付に入るときは、ヨガ教室にかよう奥様たちの、ロビーでの滞在時間がながくなるのだと、ゼミの後輩でもある男の子が教えてくれた。
また、今となってはもうすっかりなつかしい思い出だけれど、はたらきだしたばかりのころは、転勤族だという若い主婦から連絡先のかかれた紙をわたされたこともあり、まだ安心や安定というものを得られていなかったわたしは、たびたびその件で彼ともめた。そしてそのたびに喧嘩して──といってもわたしが一方的におこって、雄太くんがあやまりながらなだめるかんじ──さいごには仲なおりのセックスをして、朝までぴったりと体をくっつけてねむるのだった。
昨日は小学生の体操教室に補助として参加した際に、高学年の女の子たちから質問ぜめにあったそうで、「そういえば」とたのしそうに彼が話しだした。
「彼女はいるのかってきかれたから、もちろんいるって答えたよ」
「そこは笑って濁すべきじゃない?」
「それは野暮な答えなんじゃないか?」
「…そう?」
「なにより
に対して失礼だろう」
雄太くんの言い分をきいて、わたしはどう返事をすればいいのかよくわからなかったけれど、子ども相手に真剣に受け答えをする彼の姿を想像するとちょっとおもしろくて、わたしにたいして失礼だとかそんなことはちっとも問題ではないようなきがした。
「その子たち、なにかいってた?」
「彼女がどんなひとなのか細かく訊いてきたから、
のことを話したよ」
「…なにを話したの?」
彼はわたしの下の名前や、年齢や、身長や、体型や、髪の長さや色や、職業なんかを順番に答え、それからいっしょに住んでいることなどもつたえたといった。わたしのしらないところで、わたしのことをしってゆく子どもたちがいることに茫然とした。
「雄太くん、随分仲良しなのね、その子たちと」
「そうかな。かわいい生徒だよ」
「そう…」
「もしかして、嫉妬してるのか?」と、彼は目をまるくしてわたしにたずねた。
「ふふ、まさか」と、わたしは落ちつきはらって答えた。
「そのなかのひとりの子が、いっしょに住んでるのに結婚はしてないのかと訊いてきたんだ」
彼がまた話しだして、わたしの心臓がどきりとはねた。ふだんから今後の話はしないようにしていたので、彼の口からそんなふうに前ぶれもなくきり出されるとはおもっていなかったのだ。
「だから、いまは結婚していないけど、俺が卒業したら近いうちにするつもりだと言った」
「…そうなの?」
「え?」
「そのつもりなの?」
「なにか違うのか?」
雄太くんはさも当然のことのようにいい放ち、きょとんとした顔でわたしをみつめた。わたしは彼がそのつもりでいたことをかんがえたこともなかったので、うれしさよりもさきにびっくりしてしまって、あいた口がまったくふさがらなくなった。そんなわたしをみて、彼の耳がすこしずつ赤く染まってゆき、また、そんな彼をみて、ようやく言葉の意味をきちんとのみくだすことができたわたしの顔もあつくなっていった。
「
、勘違いしないでくれ。言っておくけど、これはプロポーズとは違うからな」
そういって雄太くんは手のひらをわたしにみせて、「そのときは、俺からもっと、ちゃんと伝えるから」とつけくわえ、ドライフルーツに手をのばした。わたしははずんだ声音でこころよく返事をして、彼の肩にゆったりと頭をあずけ、グラスを口元へ寄せた。おおきな歓声にはっとして前をみると、テレビではリヴァプールが4点めをとって、試合を決定づけたところだった。
2019.05.25