ネクター
※原作単行本32巻あたりの話です。







 幼い頃よく遊んだ、大きな銀杏の樹のある公園のベンチに、は冬休みだというのに制服を着て、スカートから伸びた素肌の脚をさらけだし、マフラーに顔を埋め、縮こまるようにして座っていた。そこへジョギングの最中だった栄太が通りがかり、軽く弾むような足どりで、小さく丸みのある背中へとすこしずつ近寄っていく。二、三歩したところでが警戒心を剥き出しにしたような険しい目つきで振り返り、栄太を見つめ、ほとんどため息のように紫煙を吐いた。栄太は耳に引っかけていたイヤフォンを外して、錆びた骨組みのベンチへ腰かける。のとなりに、ひとりぶんよりもすこしだけ狭い空間を隔てて。


「栄太かよ」
「なんだよ、俺じゃ悪いか」
「べつに」
「お前、また朝帰りだろ。ひどい顔だぞ」
「うるっさい」

 は片手に缶ジュース、もう片方の手には火のついた細い煙草を持って、寝不足と飲酒からくる頭痛に見舞われているようだった。顔に塗られたファンデーションは長い夜を乗りこえ、どろどろに張りついていて、アイメイクやチークは滲み、頬骨や鼻先、顎などの盛り上がった部分に色づけされた彼女の念入りな仕込みはところどころ剥がれおち、地肌の赤みが顔を出していたし、髪は寝起きのそれのように乱れていた。


 ふう、と、が長い息を吐く。煙草の煙なのか、自分の吐息なのかわからない白く濁った気体が、つめたい風に流されて消えてゆく。栄太は怪訝そうな表情でそれを眺め、もうこれ以上我慢がならないというような具合で、彼女の右手の煙草を奪い取る。先端の火が、夕焼けの太陽みたいな色をして燃えている。まだ充分に吸うことのできるそれを、栄太は躊躇いもなく砂利の上へと落として、ランニングシューズの裏で踏みつぶした。


「煙草吸う女、嫌い」


 あと、変な髪の色の女。
 栄太がつづけざまに言って、は自分のことを言われているのだと思いながらも、まるで無関心な様子で、缶ジュースを口元へと運んでごくりと喉を鳴らした。このぐらい、冬休みだからいいんだよ。それにいまどき煙草吸う女が嫌いとか言っちゃってさ、考えが爺くさいっつうの。栄太はの悪態を、なんでもないふうに聞き流した。


「てかさ、栄太、部活じゃないの」
「今日は午後練」
「めずらしいね」
「もうじき、準決だからな。調整しないと」


 準決勝や、それが意味する重圧、それまでにしてきた彼の努力や鍛錬を、は知らないし、彼自身からそういった話を聞いたこともなかった。話したがらないから、聞かなかっただけ。栄太はいつだっての三軒となりの幼なじみで、彼女の前の前の前の彼氏だったというだけなのだから。


 は、ときどき、栄太と付き合っていたころのことを思いだす。

 恋人らしいことをしたのは、ぜんぶ、栄太がはじめてだった。ショッピングモールでデートをしたことも、下校時に手をつないだのも、雪の降るクリスマスを一緒に過ごしたのも、帰り際、この公園の灯りのしたで身を寄せあってキスをしたのも、台風の日に栄太の部屋で体を重ねたことも、鮮明に覚えている。あのとき、あたしは正真正銘の処女だったから、痛くて痛くてたまらなくて、そうしたら栄太が、じゃあやめとこう、と言って、装着したコンドームを取り外そうとして、あたし、やっぱりやめないでって、お願いしたんだったなあ。痛かったけど、うれしかった。でも、なにかの弾みで大きな喧嘩に発展して、もうなんのことで言い争ったのかまったく思い出せないけれど、あたしはそんなの全然平気だって、すぐ仲直りできるって思っていたけど、栄太は違ったんだよね。たぶんあたしが、栄太にひどいことを言ってしまったんだと思う。でもさ、人間の脳って、ほんとうに都合よくできてると思うよ。だって、そんなにひどいことを言ってしまったらしいのに、あたしには栄太との楽しかった思い出しか記憶にないのだもの。

 栄太と別れてから、傷心しているあたしを見かねた友達が、ひとつ年上の他校の男を紹介してくれて、あたしは寂しさを埋めるためにそのひとと付き合った。お酒も煙草も、そのひとに教わった。長期の休みには髪の色を変えて、学校も、先生から呼び出されない程度にさぼりだして、栄太のことなんてすっかり忘れそうになっていたんだけど、このまますっかり忘れてしまいたかったんだけど、ふとした瞬間にあたしの脳裏をよぎって、子どものころ、いつもの、朝の玄関先で、おはようって、挨拶するときみたいな無邪気な笑顔で、あたしの名前を呼ぶのだ。
 結局その男とはあんまり長続きしなくて、次に付き合った大学生のひとも、車を持ってて、バイトもいっぱいしててあたしよりもずっとお金があったけど、長続きはしなかった。
 失礼だと思うからあまり比べないようにしてるつもりだったのだけれど、キスをしててもセックスしてても、やっぱりなにかが違うのだ。栄太のほうがいいって思ってしまう。技術的なことじゃなくて、もっとべつのなにか。波長っていうの? 相性? わからないけれど、そういう、プラトニックなところでつながってるような、包みこまれるような、安心感。そうだ、栄太の前で、あたしは、ありのままなんだ。それは、恋人でもあり、親友でもあるように。



 は、手に持っていたスチール缶をベンチの上、栄太とのあいだに置き、その隙間を、つめたい風が強く吹き抜けていく。乾燥で粉を吹いた膝に手のひらをあて、何度か擦ると、摩擦で肌が赤くなった。栄太は片耳だけにイヤフォンを取りつけて、音楽を聴いていた。朝の静かな騒音にまじって、イヤフォンからはシャカシャカと小さな音が漏れていた。


、準決、来いよな」
「え、だるい」
「いやいや、全校応援だから」
「どこだっけ」
「埼スタ。当日は、学校から応援のバスも出るだろうし」
「ふうん」
「来いよ、絶対」


 念を押されて、は、もし行くとなればこの髪を暗く染め直さなければいけないと思いながらも、あまり悪い気はしなかった。頭を下げ、顔の両側からだらりと垂れたぼさぼさの髪の毛束を、枝毛ばかりの傷んだ毛先を、ぼうっと眺め弄りながら、その向こうの、栄太のジャージのポケットに、自分のと同じような輝きを持つ細い束のようなものが収まっているのを見つけた。


「なにそれ」
「え? あ、これ…」
「ビニール紐?」
「…先輩から引き継いだんだ」
「これを?」
「ああ、持ち歩くように言われてる」
「へえ…」
「おい、今なにか変なこと考えたろ」
「うん、まあ。なんかエロいなあって」
「はあ…」

 栄太は片手で顔を覆って、恥ずかしそうに項垂れた。

「だってそれ、縛るんでしょ」
「練習で使うんだよ!」


 むきになって話す栄太に、は崩れた顔をよりいっそう崩して、肩を揺らして笑った。目尻には薄らと涙の雫が垂れて、アイラインの黒とまじって泥のような色になり、ファンデーションに吸い込まれて乾いていった。涙の伝った跡がむずがゆく、爪で引っかくと爪先の皮膚と爪のあいだに絵の具のような肌色が溜まった。

 栄太はベンチから立ち上がって、ネックウォーマーで顎の先を隠し、レギンスの裾を伸ばしての前にまわり、送る、と言って缶ジュースを取り上げ飲み干した。それから先刻踏みつぶした煙草の吸殻を拾いあげ、律儀に空き缶の口に突っこんだ。も彼の後を追うように立ち上がり、下着が見えそうなほど短い丈のスカートのプリーツを引っぱり整えた。

 朝のわずかな時間の、他愛もない会話が、これほどまでに楽しくて、かけがえのない時間だということを思い出して、は自分がずっと、栄太のことを忘れられなかったのだと知った。また栄太も、変わりゆく彼女の姿を間近で見守りながら、いつかまた同じ歩幅で歩くことを願っていた。彼女の安っぽい香水の匂いを嗅いで、飛び出たビニール紐の端を、ポケットへ押しこむ。背後から、待ってってば! と、彼女が駆け寄る。


「ねえ、今度さあ、それであたしのこと縛ってみてよ」
「ばっ…お前、なに言って」
「もう、どこへも行かないように」

 その紐で、繋ぎとめてよ。照れくさそうに俯いたの口から、無愛想な調子で紡がれた言葉。告白にしてはよほど拙いそれが栄太の握るネクターの空き缶を手の内からするりと奪い滑らせたとき、ふたりはもういちど、恋に落ちる。







2019.07.17