射影
※高校生×人妻の話のため、苦手な方は閲覧をお控えください。
※I.H.都予選決勝後の話です。








 部活の帰り道、静かな住宅街のなかを、自転車で颯爽と駆け抜ける。最寄り駅の近くに、2年前に新築したという5階だてのマンションがある。そこの4階の角部屋がさんの家。
 俺は目的地へまっすぐ向かう。さっきまで棒のようだった足が、すっかり元気だ。


 マンションのエントランスのパネルに部屋番号を入力し、呼出ボタンを押す。やや間があって、聞き慣れた声がした。もう何度目かも知れないのに、この声にたまらなく胸がしめつけられる。


「…はい」
「あ、さん。俺です」
「はーい」


 間抜けな返事とともに、エントランスのもうひとつの扉が、音をたてて開く。
 エレベーターであがっていくと、いちばん奥の部屋へ。ドアの鍵はすでに解けていた。なかからは焼き魚のにおいがする。


「お邪魔します」
「陣くん、今日もお疲れさま」

 リビングの脇、動線にかからないようにエナメルバッグを置く。


「すげーいいにおい」
「今日はねぇ、ホッケの開きだよ」
さん、渋いね」

 スーパーに買い物に寄ったら、大きなホッケが目にとまり、つい買ってしまったというさん。きっと酒のつまみにぴったりだとおもったのだろう。シンクにはすでにのみかけの発泡酒があった。



***




 さんとは、フットサル場で出会った。栄二さんの知り合いのひとの、奥さんだった。旦那さんとは2、3回いっしょに試合をしたことがあるが、部署の異動で出張が多くなり、それ以降は試合にこなくなっていた。
 栄二さんが気をつかって、またいつでも集まれるようにとラインのグループをつくったとき、うちのひとラインを登録していないから私のを登録してほしいといいだしたのがさんだった。ラインのプロフィール画像は新婚旅行でいったというハワイのビーチの写真だった。


「風間くんだっけ?」
「あ、はい」
「風間くん、本当にサッカー上手だねぇ」

 屈託のない笑顔、眉毛も目じりも垂らして指先だけで小さな拍手をおくってくれた。愛らしいひとだとおもった。


 そこから俺は、だんだんとわがままになっていった。
 最初は応援に来てくれるだけで満足していた。くるたびに差し入れをくれて、やさしいお姉さんという印象だった。旦那さんがこなくなってからも、ラインの通知を見てはときどき遊びにきてくれた。

 肩に掛かってすこしだけはねた毛先、適度なふくらみのある胸、腕を捲り上げたときにのぞく白くてほそい手首、短い爪、笑ったときの目じりの皺。…母さんみたいだ。このひとがもっと近くにいてくれればいいのに。実際のところ、俺は彼女の年齢も、誕生日も、出身地も、なにもかも知らない。


 それから俺たちは、試合後や部活帰りにラーメンを食べに行くようになった。ラーメンの気分じゃないときは、ファミレスに行った。サッカー部のやつらがするみたいに、ドリンクバーだけで何時間も話したこともあった。だいたい俺がほとんど話していて、さんは俺の目をじっと見つめながら、うんうんと頷き、慰めや、励ましや、労いの言葉をくれた。


「今度、さんの手料理食ってみてーな」
「あはは。何それ、口説いてるの?」
「そうだけど」
「私、結婚してるの。知ってるよね」
「ダメ? …メシ、食うだけ。さんちで」
「そうねぇ…」


 もっともっと近くにいてほしい。ただそれだけだった。



 家にあがり込んでしまえば、もうそれは俺のおもうままに進んだ。夕食をもらって、窮屈なサイズの布張りソファにふたりならんで、他愛ない話をして、目があって、キスをして、セックスをした。さんは、たいして抵抗することもなく、ごく自然なことのように俺を受けいれた。彼女の手料理はよほど手がこんだものではなかったけれど、なんでもおいしかった。
 なにより驚いたことは、俺たちはからだの相性がばつぐんによかった。いれた瞬間に、ぴったりと吸いつく感覚。いままで感じたことのない、うれしいような、懐かしいような、うっとりとした気分になった。



***




 俺はふたりぶんの箸やマグカップをダイニングテーブルのうえに無造作に置いた。冷蔵庫を勝手にあけて、飲み物をさがす。さんは、発泡酒をもう1本。俺は、さんがいつもパート先に持って行っているという水出しのルイボスティーをマグカップに注いだ。
 ルイボスティーなんて、彼女の部屋にくるようになるまで飲んだこともなかった。緑茶や烏龍茶よりも清涼感があって、部活後のからだにはちょうどいい。



 顔よりも大きなホッケの開きをふたりでつつきながら、俺は白ごはんを食べ、さんは雑に混ぜあわせただけの生野菜のサラダをつまみ、酒をのんだ。さんは、夜は炭水化物の摂取を控えているらしい。もともと太っているわけではない。かといって痩せているわけでもない。年相応のからだ。カットソーの襟と、伸びた毛先の隙間から見える鎖骨が俺を高揚させる。



さん、つぎ、オットさんはいつ帰ってくる?」


 彼女は冷蔵庫の扉にマグネットでとめられたカレンダーを見やる。そこにはオットさん──旦那さんのことだ。さんが旦那さんの話をするとき、いつもこうやって呼んでいるから俺も彼女との会話ではそう呼んでいる──のスケジュールが書きこまれていた。いつ帰ってきて、何日から、どこへ行くのか、ふたりで外出する予定などもあった。どうやらオットさんがつぎに帰ってくるのは、あさってのようだった。



 食事がおわると、彼女はそそくさと自分のぶんの食器をまとめ、洗いはじめた。さんが家での食事にかける時間は、あまり長くない。学校の昼休みの女子たちとはちがう、ひどく事務的な作業のように感じられた。
 俺も、茶碗の米をかきこんでシンクへ運ぶ。背中をちいさく丸めながら食器を洗うさん。布がまとわりつく感じがいやだからという理由で部屋着はずっとカットソーにショートパンツだ。そこから伸びる脚や、そのうえからでもわかる、すこしだけ垂れはじめた尻の輪郭。彼女のからだのぜんぶが俺を欲情させる。


「急にどうしたの」
「いや…会うの久しぶりだからさ、ちょっと」
「ちょっと、何?」
「コーフンしてきちゃった」

 ばかじゃないの。
 後ろから彼女の腰に手をまわして、服のうえからくびれを撫でる。さんはくすくす笑いながら、なんでもないふうに皿を洗いつづける。そっと肩口に唇をおとすと、くすぐったそうに身をよじらせた。


「陣くん」
「うん」
「…負けちゃったのね」
「…うん」


 シンクの蛇口を閉め、反転して向かいあう。今度はさんが俺の腰にふれる。アルコールのせいか、頬が赤い。ふれた手が、あたたかく背中をつつんでいく。このあいだ部室で泣いたばかりなのに、また泣きそうだ。目を瞑れば、フラッシュバックするあの日の試合。あのとき、俺はもっとできた。いや、できなかった。なにも。できなかった。


 水気を帯びたしなやかな手が、俺の髪を梳いて、頭を撫でた。まるで母親が子どもにするみたいに。それから、両手で俺の頬をはさんで、短いキスをした。
 悔しかったよねえ。
 さんは泣きそうな顔をしていて、俺はなにも言えなくなって、背骨を折るようにして屈み、彼女をきつく抱きしめた。そうして、さんの薄い肩口で声をころしてすこしだけ泣いた。







'Ah,vous dirai-je, maman'
2019.01.30