あいまい
※キメツ学園設定・捏造過多







 このところ、学校が終わると、幼馴染の時透家に寄るのが、あたしの習慣になっている。あんまり毎日入り浸っているので、そろそろ時透家のひとたちに迷惑だと思われ始めていないか心配になることもあるけれど、あたしやあたしの母親の事情を知っているからか、今のところ怪訝そうな顔をされることもないし、かえって優しく迎え入れてくれるので、なんだか時透家があたしのほんとうの家のように思えてきてしまう。
 実際には、あたしのほんとうの家はここから目と鼻の先にあるのだけれど、父親がよそで愛人をつくって出て行ってしまってから、あたしにはあの場所が、外観だけを小綺麗に飾りつけた、ただの箱のように見えて仕方がない。あの薄汚い箱のなかで、あたしの母は、帰ってこない父を、ずっと待っている。


「有一郎は?」

 時透家のリビングには、無一郎ひとりだった。リビングテーブルの上に広げられた宿題のプリント、今日返却されたらしい先週の日付のそれには、右上のところに赤色の大きな丸印が付いている。無一郎はそれらに見向きもしないで、柔らかく使い込まれた本革のソファを背もたれにして、ラグの上に座り、今週の課題に取り組んでいる。

「碁会所」
「へえ、囲碁もやるんだ」
「有一郎はね」
「無一郎は? いっしょに行かないの?」
「囲碁はあんまり興味ないから」
「ふうん」

 目の前の課題に視線を落としたまま、会話が終わる。あたしは肩に掛けていた通学用の鞄をラグの上に放り投げる。財布と筆記用具しか入っていないぺらぺらの鞄は、放り投げたとたんにぺしゃんこに潰れた。

は?」
「あたし?」

 あたしは無一郎の邪魔にならないよう、そうっとソファに横になり、スマートフォンのゲームのアプリを開いた。なかなか起動しないので、SNSを流し見る。
 背を向けたまま、無一郎が話しかける。

「彼氏のところ、行かないの」
「うーん……」
「いるんでしょ、彼氏。このまえ、有一郎が下校中に見かけたって」
「彼氏っていうか……、まあ、なんか、忙しいみたい」
「バイト?」
「ちがうけど……」
「変なの、テスト期間でもないのに」
「いろいろあるんだよ、高校生は」
「そうやって、すぐ中学生を馬鹿にする」
「馬鹿になんてしてないよ」

 無一郎のため息が聞こえて、あたしはアプリを閉じた。馬鹿にしてるのはあんたの方なんじゃないの。中学生が高校生に向かってため息つくなんてさ。あたしは内心でつぶやく。

「そもそも彼氏ってわけじゃなくて……、なんとなく流れで、一回だけそういうことがあったってだけで……、」
「そういうことって、なに」
「とにかく、もうあいつのとこには行かない」
「ねえ、そういうことって、どういうこと」
「この話は終わり。ほら、宿題」
「こういうこと?」

 振り向いた無一郎がソファの縁に手を掛けて、身を乗りだす。そうしてあたしの視界が無一郎でいっぱいになって、突然のことにびっくりしてかたく目をつぶると、唇に生温かい肌の感触。訳も分からないまま薄らと目を開けると、もう一度、唇が触れる。

「なんでっ、ちょっと」
「静かにして」
「無一郎、やだっ」

 覆い被さるように重なったからだは、細いけれど筋張った無一郎の四肢に押さえつけられて、思うように動かすことができない。あたしは制服の下に入ってきた彼の手を力任せに掴んで、必死に振り払う。

「ねえ、なんか変だよ、今日の無一郎」
「あいつなんか、捨てちゃえばいいのに」
「なに言ってるの?」
「絶対に僕の方がいい。僕は、を愛してる」

 僕は誰よりも長い時間と一緒に過ごしてきたし、のいいところも悪いところも知ってる。この頃はもうすっかりほんものの家族みたいに打ち解けているじゃないか。僕たちはきっとうまくやれる。それに僕のことが好きじゃなかったら、こんなふうに僕ひとりしかいないこの時間に、軽々しく上がり込んだりしないだろう。


「やめてってば!」

 あたしは渾身の力を振り絞って、無一郎の肩を押した。突き飛ばされた彼は、尻餅をつくような形でラグの上に落ち、それから正気を取り戻したのか、黙ってあたしを見詰めた。その目がちょっとだけ潤んでいたので、あたしは自分がとっても悪いことをしてしまったような気持ちになって、とっさに謝罪の言葉が口を衝いた。

「あっ、ごめん……」

 謝って、乱れた自分の制服を直す。沈黙のまま、気まずい空気が部屋じゅうに満ちてゆく。

「あ、あたし、今日はもう帰るね」

 鞄を引っ掴んで、あたしは急いで、玄関を飛びだした。無一郎の行動に驚いたのと、彼に対して乱暴な拒絶をしてしまったことに、あたしの心はひどく打ちのめされて、涙が溢れて止まらなかった。

 なんであたしが泣いてるんだろう。
 無一郎は、そういうんじゃないと思ってたから?

 ──そういうのって、なんだろう?


!」

 無一郎が玄関先から駆け寄ってくる。立ち止まって泣いていたあたしは、すぐに追いつかれてしまった。どうせ脚も遅いのだから、走って逃げたところで追いつかれるのは目に見えていたのだけれど。

「乱暴してごめんね、無一郎」
「僕こそ、泣かせてごめん」
「うん」
「送るよ」
「いいよ、もうすぐだから」
「こういうときは、黙って送られてよ」

 泣いてる女の子をひとりで帰すなんてできない。無一郎はそんなことを言って、あたしの手を握った。リビングであたしのからだを弄ったときとは全然ちがう、優しい触れかただった。

 あたしは無一郎に手を引かれながら、家で何をするでもなく、今日も、ただぼうっと虚空を見詰め、帰ってくるはずのない父を待つ、母のことを考えた。まだひとりで歩くのも覚束なかった頃、外出するときにはいつも母があたしの手を握っていてくれた。あったかくて、ふわふわしていて、包まれていると、うんと安心する手だった。


「今日に言ったこと、全部僕の本心だから」

 無一郎は至極真面目な顔をして、あたしに言った。

「僕はを愛してる」
「ねえ、無一郎、愛するってどういうこと?」

 あたしのお父さんはお母さんをほんとうに愛してたから結婚したんじゃないの?
 お母さんは、あたしのこと愛してるの?
 無一郎はあたしがあいつと付き合ってても、あたしのこと愛してるの?

 あたし、馬鹿だから、そういう脆くてあいまいな感情、どう表したらいいのか、どう伝えたらいいのか、わからないよ。だから無一郎、そんなふうに簡単に、あたしを愛してるなんて言わないで。


「愛ってなに?」

 家までのごく短い距離が、途方もなく長い道のりに感じる。あたしも無一郎も黙って、斜めに伸びた影を眺めながら、とぼとぼ歩く。彼の手はいつまでもあたたかかった。







'思春期'
2020.04.02