アイシングクッキー
泣きながらクッキーを焼く。
シンクに手をつき、予熱されたオーブンの中できつね色に色づき膨らんでいく生地を見詰める。その間にも涙は流れていく。ぽたり、ぽたり。このまま流し続けていたら、いつか、砂漠のようにカラカラに枯れてしまうかも知れない。
となりで食器を片付けていた寿人が、手を止める。
「
、どうした」
「リリィがね、死んだの」
「リリィ」
「うん」
「あの、実家の」
「そうよ」
今日の朝、実家で飼っていたミニチュアダックスフントのリリィが死んだ。
実家を出る前からすでに老犬だったのだけれど、そのあと椎間板ヘルニアを患い、術後の経過も虚しく力尽きてしまったらしい。
リリィは小さな頃から、内弁慶の、高慢な雌犬だった。黒や、赤茶色の毛色が定番の犬種なのに、リリィの体はほとんど白に近いクリーム色の毛をしていた。そのせいか、散歩に出掛けると、必ずと言っていいほど「綺麗な色の子ねえ」と声を掛けられ、めずらしがられるのだった。
しかしリリィ自身は家族以外の人間が苦手だったので、見ず知らずの人がちょっとでも近づけば私たち家族の脚を盾にして隠れ、それでも追ってくる人に対しては平気で怒ったり、噛みついたりした。そのために散歩の回数はしだいに減っていき、ついには、ほんとうの箱入り娘のようになった。
そんな彼女を見て、母は口癖のように「リリィはあんたにそっくりね」と言うのだった。
「あんたには水樹くんが居て良かったわねえ」と。
冷蔵庫の扉に付いたマグネットのキッチンタイマーが、けたたましい音でクッキーの焼き上がりを知らせる。調理用のミトンで鉄板を取り出すと、一瞬にして香ばしい匂いがキッチンを覆う。
「いただきまーす」
まだ冷ましきっていない、熱いままのクッキーを、寿人が摘み、口へ運ぶ。犬用の、バターも砂糖も入っていないそれを、もぐもぐと食べ進めていく。
「犬用なのに」
「そうか。でも、美味いぞ」
「そう?」
「うん。
が作るものは、なんでも美味い」
片頬を膨らませて、あまりにも真面目な顔をして言うものだから、つい可笑しくなって噴き出してしまった。寿人は、訳が分からないとでも言うような、きょとんとした顔で私を見詰める。そして、すうっと右手を伸ばして私の頬を撫でる。ちょうど、リリィが生きていた頃、私が彼女を撫でたように。
「
」
「うん」
「
が泣くと、俺もかなしい」
「うん」
「きっと、リリィも」
「…そうだね」
頬を撫でた寿人の親指が、目じりに溜まった涙を、優しく拭う。そのまま寿人の胸に額を押し付けて、肌の温度や鼓動を感じる。あたたかい。
小麦粉に塗れた白いキッチンで、寿人の腕に包まれながらゆっくりと目を瞑ると、暗闇のなかでリリィの姿が思い出された。私のジーンズの裾を噛み切ってしまったこと、生理中のおむつ姿、芝生の中を駆け回る短い脚、怒ったときにだけちらりと覗く、鮮やかなピンク色の歯茎。
明日、このクッキーを実家へ持って行く。彼女の大好物の、手づくりのアイシングクッキー。
2019.03.07