毛先をゆるく巻いている
「美容室に行ったの」
クチポールのディナーフォークに、トマトソースのよく絡んだスパゲッティをくるくると器用に巻きつけて、
が口を開いた。そう言われてみれば、朝は生え際が黒かったかもしれない。もう少し長さがあったかもしれない。ずるずると不確かな記憶を辿っていく。敦は
の報告を受けるまで、何も気がつかなかったのだ。
「気づいてなかったんでしょう」
「タワケが。早く食え」
はくすくすと笑いながら、ふたたび黒い柄のそれにパスタを巻いた。
一緒に暮らし始めてから、彼女の外見は少しずつ変わっていった。髪や爪の先はいつも艶々としていて、体の隅々まで手入れが行き届いており、さっぱりとした甘い香水を纏っている。化粧品はほとんどデパートのコスメカウンターで購入するようになったし、靴や鞄もブランドの物を身につけている。より女性らしくなっていく
を見て、後輩たちが「君下さん、あんなに綺麗な人と一緒になれていいっすね」と羨む。そんなとき、敦は照れながらも、すこし寂しい気持ちになる。敦のなかの
はいつまでも、出会った頃のままの制服姿で、髪はひとつに結ばれていて、化粧は薄く、石鹸のような匂いがするのだった。
ふたりは高校生の頃に知り合った。三年間ずっとクラスメイトだった。当時の敦には、お金はもちろん、時間も、心の余裕もなかった。そのほとんどを部活に注ぎ込んでいたからだ。
は、四六時中サッカーのことばかり考えている彼が好きだった。
はお金こそなかったが、熱心でない茶道部員だったので、時間だけはたっぷりあった。暇を見つけては友達とサッカー部の試合を見に行き、たった一度のパスで試合を支配し相手を圧倒する彼のサッカーに、何度も心を揺さぶられた。
君下くん、超カッコいい。
彼の代名詞とも言える華麗なフリーキックを見て、
は衷心からそう思った。
要するに、
の熱烈な長期的アプローチに敦が根負けしたような形で関係は始まった。しかし今は、敦も彼女のことを放って置けない程には愛しているのだった。
「毛先をね、仕上げに巻いてもらったの」
「……」
「敦くん、見て見て。どう?」
が肩に垂れる髪を薄く摘んで、目の高さまで上げて見せた。ヘアアイロンでゆるく癖付けられた栗色の髪。敦の鋭い視線が彼女の毛先を捉える。
「…似合ってる」
「えっ、何? 聞こえなかった」
「一度しか言わねえ」
「似合ってるって思うなら、もうちょっと早く気づいてくれたっていいじゃない」
「テメー、ちゃんと聞こえてんじゃねえか」
「敦くんがあんまり素直で可愛いから、からかいたくなっちゃった」
敦は舌打ちをしながら、空になった食器をまとめ、席を立った。いくら外見を取り繕ったところで、中身はずっとあの頃の
のままだった。彼女の底なしの好奇心が、敦をうんざりさせるまで質問攻めにする。そして最後には可愛いだとか格好いいだとか好きだとか言って、うまい具合に丸め込んでしまう。敦は毎度、頭ではわかっていても、なぜだか回避することができない。それでも嫌な気分にはならなかった。
正直なところ、敦にとっては
の髪が美しく巻けているかどうかなど、初めからたいした問題ではなかった。どうせそんなことは考えられなくなるほどぐしゃぐしゃに抱いてしまうのだから。
「…
」
「なあに?」
「皿は俺が洗う。先にシャワー浴びてこい」
シンクに立つ敦の後ろ姿を見て、
は快く返事をした。
2019.03.12