夜空の海
※中学生の頃の話







 夜空の海辺、ひとりの男の子が、しずかな防波堤の上に座っている。同じクラスの、風間陣くん。さらさらしたきれいな金髪の、きれいな顔の男の子。サッカーボールを追いかけているときには、だれにも見せたことのないくらいの無邪気な顔で笑う、きれいな男の子。

「風間くん」

 名前を呼ぶと、彼は釣り竿を握ったまま振り返り、もう片方の手をあげて左右に大きく揺らした。ー、と、わたしを呼びながら。

「こんな暗いのに、よく気づいたな」
「風間くんの髪、風になびいて、きらきらしてたから」
「あー、やっぱり美形はどこにいても目立つんだよなあ」
「ふふ、うん」

 はっはっは、と、風間くんは高らかに笑った。となりに腰を下ろすと、彼のまわりには、エナメルバッグと釣り竿以外、釣ったものを入れるバケツもなければ、餌も、なにもないのだった。

「なにしてるの」
「んー、星釣り」

 彼は釣り竿を握った腕をまっすぐに振り下ろし、餌もルアーも引っかけていない釣り針を、夜空の海に放った。目の前の広大な夜空の海のなかに、釣り針は音もたてずに落ちていった。
 わたしは首を精いっぱい前へ伸ばして、恐る恐る水面と思われる部分を覗いた。だって、空も海も同じ色をしていて、水平線なんてまったくわからないのだ。
 真っ暗な闇のなかに見える無数の星たち。ところどころ、白っぽく輝く大小の光、その光の輪郭はぼやけているけれど、赤だったり、青だったり、黄色だったりする。流星群らしき、小さな光の集まっているところや、光のまったくないところ、水底で神々しく光りかがやいているところもある。遠くには、大きくて丸い、やわらかな光が見える。きっとあれは、月。


「きれいだね」

 そう言うと、風間くんは慣れた手つきでリールを巻き、ひゅうっと釣り竿を振りあげた。糸の先には、ごつごつした石ころみたいなものが引っかかっていた。あちっ、と言いながら、爪の先を使って器用に針を抜き、石はふたたび夜空の海へ。水面に触れたとたん、すぐさま鮮やかな光を取りもどした。

「こいつらがきれいなのは、海のなかにあるときだけなんだぜ。釣りあげると、溶岩みたいに硬くて、痛くて、穴ぼこだらけで、きれいでもなんでもないんだ」

 熱いのやら、冷たいのやらもあるから、火傷することもある。
 説明して、風間くんはもういちど、釣り針を投げた。

「この時期は夏の大三角とか、月みたいな大物は、絶対にやめたほうがいい。針ごと持っていかれる」
「それ、わたしにも、やらせて」

 ちょっとの間だけ貸してもらった釣り竿は、細くて、軽くて、すこし力を入れて振ったら手のひらをするりと滑って飛んでいってしまいそうだった。大物を狙わないのならば、光っていることすら分からないほどの、小物を狙ってやろう。そう思って、なにも光っていないと思うところへ、針を垂らした。風間くんは、黙ってそれを見ていた。


「そういえば、はこんな時間になにか用事でもあったのか?」

 女の子のひとり歩きはあぶないぞお、と、彼はおどけるように言った。

「塾の帰りなの。風間くんは?」
「俺? 俺はフットサルの帰り」

 横のエナメルバッグに視線を注ぐと、おもてにプリントされた由比ヶ浜中学校サッカー部の文字が、くっきりと浮かびあがって見えた。


「風間くん、最近、学校でサッカーしないね」
「まあなー」

 俺が楽しいと、みんなが楽しくなくなるらしい。

 風間くんが、他人事みたいに言う。それからまた、垂らした釣り糸の方角をじいっと見詰めて、あっ、と声をあげた。竿の上のごく細い部分だけが、わずかに揺れていたのだ。

、リール巻いて」
「えっ、あ、うん」

 いそいでリールを巻き上げ、糸を摘まんで釣りあげると、そこにはやっぱり小さな石ころみたいなものが引っかかっていた。さっきと違うのは、その石ころの、何箇所かの鋭利な部分から、まるで初夏の晩に飛び交う蛍のように、緑と黄色の混ざったような淡い光を放ちながら、わたしの手のひらに収まっているということ。


「光ってるよ、風間くん」

 わたしは驚いて、ほとんど息だけみたいな声で、彼に伝えた。彼は咄嗟に、お願いごとだ、と言った。

「手のひらで包んで、お願いごとをするんだ」
「風間くんも、一緒にお願いごとしよう」
「釣ったのはだろ」
「だめ、一緒にするの。手、貸して」

 わたしの左手と、名前も知らない小さな星、その上に彼の右手。包むようにして、またたく光を閉じこめ、目を瞑りお願いごとをする。心地よい星々の静寂がわたしたちを見守っている。


、お願いごと、した?」
「うん、したよ」
「なんて?」
「…言わなきゃいけないの?」
「えー、いいじゃん」
「風間くんから言ってよ」
「俺は、一生楽しく過ごせますように」
「ふふ、風間くんらしくて、すてき」
「つぎ、の番」
「風間くんが、ずっと楽しくサッカーできますように」
「…お前さあ」

 自分のことお願いするだろ、普通。
 風間くんは困ったように笑いながら、わたしの釣りあげた星を、そうっと夜空に投げ入れた。

「だって、それしか思い浮かばなかったんだもの」

 わたしが言うと、風間くんはうつむいて、弱々しい声で「でも、ありがとな」と言った。
 聞こえてきた声は微かに震えていて、もしかしたら風間くんは、泣いているのかもしれない。釣り竿を置いて、となりに座る彼の襟足の髪を、梳くように撫でる。触れたそこはまだ乾ききらない汗ですこしだけひんやりとしていて、だから余計に、彼の言葉の内側にある優しさなんかが沁みて、わたしは何度も彼の襟足を撫でた。風間くんは下を向いたまま、ありがとう、と繰り返した。夜空の海へと返された星は、よりいっそう強く発光し、やがてひとつの流星群に合流した。







2019.06.24