長所と短所







 長所:誰とでも分け隔てなく仲良くなれるところ
 短所:長所のせいで本命の子に気づいてもらえないところ



1


 授業中、先生の声がよく分からない呪文か何かを唱えているみたいに耳を通過していく。俺の五感は、いま、ほとんど目だけしか機能していない。それもそのうち睡魔に負けて使い物にならなくなるんだろうけど。あーあ。前の席のの、小さな背中をぼうっと見詰める。何度か瞬きして指の腹で目をこすり、今度はじっと凝らして見る。ブラウスの僅かな波打ちをなぞって、溜め息を漏らす。あーあ。透視とか、使えたらいいのに。それか、ちょっとずつでいいからのブラウス溶けねーかな。それだとの裸が全員に見えてしまうから、やっぱり透視のほうがいいか。


「佐藤ー」

 右手でプリントをひらひらと扇いで俺に渡すの、女子同士で話すときよりもすこしだけ低い声──完全に油断してる──とか、華奢だけど柔らかそうな白い手首とか、キレーなオーバル型に伸びた爪とかを眺めながら、好きだなあなんて思う。思うだけで、誰にも伝えたことはない。いや、まだ好きかどうか自分でも分からないくらいの気持ちの時、もしかしたら一度鈴木に打ち明けたかもしれない。もうそんな記憶も曖昧になっている。そのくらい前から、俺は彼女のことが好きなのだ。


、香水変えた? なんかいつもと違う」
「えっ分かる?」
「分かる分かる」

 は「香水じゃなくてボディクリームなんだけど」なんて言いながら手の甲を鼻に近づけてその匂いを確認した。グレープフルーツやオレンジを思わせる爽やかな柑橘類の香りに、少しだけ花のような甘い匂いが混ざった、女性らしい、いいにおい。そういえば、の体からはいつもいいにおいがする。

「…俺このにおい好きだわ」
「うそ!」
「まじ」
「やった、男子ウケゲット」


 うれしそうに笑いながら前へ向き直るの、ミディアムボブの毛先がふわりと跳ねた。さっきの、結構真面目に言ったつもりだったんだけどなあ。絞り出した俺の本音が、男子ウケという、なんとも大きな括りで片付けられてしまった。切ない。が、仕方がない。俺の交友関係の広さが、には、害のない友達とでも認識されているんだろう。長所は、転じて短所にもなり得る。彼女は決して口には出さないが、きっと俺が誰にでもこんな話をするのだろうと思っているはずだ。好きでもない奴に軽々しくにおいの好みの話なんてするかよ。



2


 火曜の5時限目が体育だなんて、俺らのクラスの時間割はぜんぜん生徒に優しくない。帰りのホームルーム開始を知らせる予鈴とほぼ同じタイミングで、着替えを済ませたたち女子生徒数人が教室に戻ってきた。顔は平然を装っているが、呼吸に合わせて肩が上下に揺れている。これは体力テストのときに分かったことだが、はそんなに運動神経が良いわけじゃないから、ちょっと走っただけですぐ息が上がってしまう。きっと着替えの時間が足りなくて、更衣室から走ったんだろう。短いスカートのプリーツを直しながら、通学カバンを机の上へ雑に置き、大きく息を吐いた。

「はあ、間に合った」
「まだ先生来てないからセーフだぜ」
「更衣室からダッシュして、階段も、ひとつ飛ばしで上がってきたから疲れたあ」

 俺のくだらない予想は見事に的中した。でも単純に着替えだけで遅くなったわけではないようだった。髪はふんわりとひとつに纏められ、目蓋にはキラキラした粉のようなものが薄く張り付き、睫毛もいつもより長くしっかりと持ち上がっていて、扇状に広がっている。頬はほんのりピンク色をしていて、唇にも同じような色が塗られ、艶々としていて、なんだか、唆る。


「やけに念入りな支度だな」
「そう?」
「デートだったりして」

 驚いたように丸く開かれた目に、聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がしてこっちが焦る。俺はときどき、こんなふうにして地雷を踏むことがある。ある程度空気は読んでいるつもりなのに、俺の潜在的な彼女への好奇心がそれを乗り越えて出てしまう。それでも、万年片思いの臆病者だからストレートに「彼氏いる?」なんて聞けるはずがない。告白して振られるくらいなら、はじめから告白なんてしないほうがましだ。結局は傷つくのが嫌なだけなんだけど。


「ちがいますー」


 返ってきたのはあまりにも間延びした否定だった。まったくもって拍子抜けだ。例えるなら、意を決して飛び込んだプールが思っていた以上に浅くて、きちんと泳ぐことも溺れることも出来ずに、二本の脚はしっかりと底に着いていて、ただ呆然と立ち尽くしているような…そんな気分。

「いやいや、ばっちり化粧直してんじゃん」
「今日はこれから田中ちゃんと坂野たちとカラオケだよん」

 の声はさっきよりも心もち張りが出て、明るくなったように聞こえた。そのあと、長い睫毛を親指と人差し指でそうっと摘みながら、久しぶりのカラオケだからたくさん歌うんだと言った。



3


 朝のホームルーム前、昇降口は1年生から3年生まで多くの生徒たちで入り乱れていた。サッカー部は朝の練習のために早く登校しているから、ラッシュに巻き込まれたことはない。俺は早めに自分の席に座って、1時限目の数学の課題をチェックしておく。今日は8日だから、出席番号8番の奴が当たるかもしれない。そうなると俺のところまで順番が回ってくる可能性が高いのだ。


「おはよう。佐藤はいっつも早いねえ」

 が気だるい声で挨拶をしながら教室へ入り、通学カバンを机の脇に掛けた。昨日の帰りとは打って変わって、今日はいつも通りの髪型、いつも通りのすっぴんだった。でもそれは俺がすっぴんだと思っているだけで、もしかしたらそう思われるような薄化粧をしているのかもしれない。とにかく昨日の帰りとは雰囲気がちがって見えた。俺にとってはどっちのだっていい。

「はよ。昨日どうだった?」
「楽しかったよ。声枯れるまで歌った!」

 振り向き様に、ボディクリームの香りが鼻を掠めた。椅子の背もたれに右手を掛けて、俺にだけ脱力した笑顔を見せる。左手ではスマートフォンを操作して昨日のメンバーで撮ったというプリクラの画像を見せてくれた。そのままでも充分可愛いのに、肌は眩しいくらいに光を当てられ、目はいくら化粧をしても及ばないほどに拡大されていて、脚は枝のように細かった。がそれを見せなければ、俺はどの子がなのかもちょっと分からないくらいだった。

 プリクラを眺めていると、ふと左手首に付けられたブレスレットが目に入った。昨日の帰りの時点では目に留まらなかったから、放課後から付け始めたのだろう。細いレザーのベルトに、シルバーの細長いメタルパーツと、ターコイズのストーンが二個通されているシンプルなデザインのものだった。

「このブレスレット、前から付けてたか?」
「昨日、田中ちゃんたちからプレゼントで貰ったの。もうすぐ誕生日だからーって」
「ふーん」
「て言っても誕生日もうちょい先だけどね。みんなバイトしてるから、なかなか揃わないんだよね」
「誕生日、27日だっけ」
「うん、そうそう」

 楽しそうに話すのブレスレットが腕の動きに合わせて転がったり回ったりするのをぼうっと眺めていた。そんなに高価なものでもなさそうなそれを、宝物みたいに優しく撫でる指先。やっぱり。

「好きだ」
「え?」
「あ、やべ」

 あーあ。まずい。気い抜いてた。俺との安定した友情が、たった今終わった。とは言え好きだというのは本当なのだから、撤回することもできず、何をどう言えばいいのか分からないまま餌を欲しがる魚のように口を開けたり閉めたりして動かしていると、が俺の腕を軽く叩いて押した。彼女の顔は真っ赤だった。俺の頭は真っ白だった。

「ばか」
「な…」
「もっと、ちゃんと言ってよ」


 恥ずかしいのは俺のほうなのに、のほうがずっと恥ずかしがっていた。やっと正気に戻った俺はの左手首をブレスレットごと掴んで、もう一度はっきりと、好きと伝えた。彼女は一度だけ小さく頷き、聞こえるか聞こえないかくらいのボリュームで「よろしくおねがいします」と返してくれた。教室にはすでに登校してきたクラスメイトが何人か居たが、みんなそれぞれにしゃべっていたのと、廊下から聞こえてくる靴音や声に比べて俺たちの声がそこまで大きくなかったために聞こえてはいないようだった。気付かれないようにさっと手を放して、はカバンから教科書とノートを取り出し数学の課題に目を通し始めた。気づくと、背中にじっとりと汗をかいていた。

 その日、俺はまったく集中できなかった。授業は寝なかったけど何ひとつ記憶がないし、昼飯を食べたかどうかすら覚えていない。部活もパスミスばかりで連携が崩れて、大柴からは罵倒されつづけ、臼井先輩からはひどい飛び蹴りを食らった。覚えているのは朝のの俯いた横顔と肌を滑るブレスレット、ブラウスから薄っすらと透けて見えたブラジャーの肩紐だけだった。







2019.04.17