狡い人
いつものようにクリーム色の布張りのソファにふたり並んで、源一郎は煙草をふかしながら片膝を立て、私はぬるいアップルティーを飲む。目の前のテレビ画面では、真剣な顔つきのアナウンサーが今日の出来事を伝えている。
「…明日、どこか出掛けるか」
源一郎が煙を吐き出して言った。私の顔を覗き込んで、少年みたいな、あどけない表情で。
「ううん、やめとく。お金ないし」
私がそう言うと、源一郎はつまらなそうに「ふうん」と返した。誘ったのは彼の方なのに、たいして行きたいとは思っていなかったようだった。
源一郎とはクラブのVIPルームで出会った。身長は私の理想の男性像よりすこしだけ低いけれど、醸し出す雰囲気も、性格も、男性的なのに艶があって、なにより煙草を吸っている時の目が、鼻筋が、横顔が、この世界のすべてを見下しているようで、本当に綺麗だって思ったのだ。
けれども、そう思ったのは私だけじゃなかった。 彼──源一郎は、おそらく今、浮気をしている。
べつに、本人に問い詰めたわけじゃない。今はまだ、私の憶測でしかない。ただ、彼のでも私のでもないピアニシモの空箱が、ぽつんとゴミ箱に転がっていたのが3日前。これが相手の挑発なのか、失態なのかはわからない。源一郎がおもむろにゴミ箱を覗いて、自ら黙々とゴミ出しに行った理由も、私にはわからない。
ぼうっと考えていたら、手のひらのマグカップがすっかり冷めきってしまった。ちらと横を見ると、源一郎は興味の無い様子でテレビ画面を眺めている。時折煙草を咥えて、私の大好きなあの顔をする。
ああ、やっぱり。結局どうしたって私はこの人の側に居たい。
「源一郎…」
スウェットの袖口を軽く引っ張ると、源一郎は「ん?」と言って振り向き、短いキスをする。横目で彼が煙草を灰皿に押しつけるのを確認して、今度は深く長いのを強請る。
それだけで心地よくなれるのだ。寂しいときはいつもこうしてセックスする。寂しいときは…
「ねえ、もっと」
源一郎はなにも言わずに、子犬みたいな声であえぐ私の、額に貼り付いた前髪を、指先で優しく払う。
本当に狡い人。私は、この男を突き放すことができない。みたされているのに、かなしい。
セックスのあと、源一郎は煙草を買ってくると言ってコンビニへ出掛けて行ってしまった。
四角い部屋に私ひとりが取り残されて、急に心細くなった。もしかしたらこのまま源一郎は帰って来ないのかも知れない。ほかの人の──あの相手のところへ行ってしまうかも知れない。もしそうだったら、当てつけに手首でも切ってやろうか。
「馬鹿みたい」
一体いつからこんなにも弱くなってしまったのだろう。最初は、キスがしたかっただけなのに。いつのまにか、私は彼が居ないとなにも出来なくて、彼が居ないと生きてさえゆけない。言うならば彼は麻薬だ。源一郎に溺れながら、快感に揺らめきながら、どんどん空っぽになってゆく。
私は空っぽになった頭で一生懸命に想像する。いつか私の全部がどろどろの液体になって、そしてなにも無かったかのように、私なんてはじめから居なかったかのように、気化して消えてしまえばいい。或いはこのまますべての感情を、心を取り払って、空気人形のように彼の欲望を受け止めていればいい。そうすれば、きっと幸せになれる。
「ただいま」
「…おかえり!」
「夜はまだ結構冷えるな」
「本当だ。源一郎、つめたいね」
私は知っている。明日も、今日と変わらない朝が来るということ。
2011.11.15: 原案
2019.03.05