遮られない眠り
※諸々ご注意ください。









1



 或る農村の外れに、ひとりの娘とその両親とが住んでいました。畑を耕し、慎ましく暮らしていましたが、この辺りの貧困はいつまで経っても好転せず、慢性的な不安と焦燥に疲れ切った父親は、しだいに暴力を振るうようになりました。

 娘の名は、と言いました。齢は十二三、明眸皓歯の容貌としなやかな身体つきを持つ、可憐な少女なのでした。
 には学こそありませんでしたが、物心のつく前から父親に殴られる母親の姿を見て来たため、母親が流行りの病で死んでしまうと、次は自分の番なのだと言うことを、幼いながらに理解していました。父親は夜毎、畑仕事から帰って来ると、酒を呷り、を殴りつけました。暫くして彼女が意識を失うと、急に悄々と甘えるような、媚びるような声を出して、「ああ、美しい俺の娘、ごめん、ごめんよ、許してくれよう」と、血と脂汗とで汚れた彼女の身体を、隅々まで舐め、気の済むまで姦しました。

 そんなとき、はいつも唇をぎゅうっと結んで堪えていました。父親からの暴行の始終、はひと言も言葉を発することをしませんでしたが、心の内では父親のことを、この手で殺してやりたいとさえ思っていました。けれども自分にそのような力の無いことも彼女は充分に分かっていましたから、雷の如く落とされる拳固や気味の悪い愛撫を、黙って受けるほかはありませんでした。
 いつの日か、神様がわたしを助けてくださるわ。
 そんなふうに思いながら。



 そうして二月ほど経った折、は勇敢にも、父親が振売のために家を出た隙に、意を決して逃げ出しました。裸足のまま、無我夢中、後先のことなど微塵も考えてはいませんでした。今この生活を捨てられることほど喜ばしいことはないと思い、一心不乱に走りつづけました。


 果たしてどれほどの距離を走って来たのか、の足の裏は小石によって幾つも傷つき、また枯れた梢枝の欠片が皮膚を貫いて、赤い血を滲ませました。

 いつの間にか、浩々たる蒼天には夜の帳が下り、冷たい靄のような空気の中に浮かぶ白々とした半月が彼女を見下ろしていました。
 息も絶え絶えにその場へ倒れ込むと、上空の暗闇が一層濃い影をなし、光り輝く装飾の施された冠を被った見知らぬ若い男が、此方へ舞い降りて来るのを認めました。見るからに高価そうな、絹の総刺繍の着物の裾を心地良い夜風に靡かせ、黄金色に輝く扇を開いてふわりと地上に降り立つ優雅な所作に、彼女は目を奪われました。


「おやおや、君、怪我をしているんだね。可哀想に。俺が助けてあげよう」

 彼こそがわたしを救う神様なのだわ。
 は惚けたように彼を見詰め、神の降臨を確信しました。









2



 闇夜の空から突然に舞い降りを拾った麗しい男は、名を童磨と言いました。
 彼は身動きの出来ないを担いで屋敷に連れ帰ると、使いの者に彼女を預け、風呂に入らせて身体の穢れを落とし、傷口の手当てを施し、少女には多量なまでの豪勢な食事を与えました。それから無数に存在する部屋の一室を彼女に与え、真綿の布団を敷き、絹で包んだ枕を充ててやりました。


「君、名前は?」

 寝巻きに着替えたを自室へ呼び寄せた彼は、幼子へ話すような甘い口振りで問い掛けます。

「……です」

 憔悴しきったはひどく困惑して、上下の唇を震わせながら糸のような声を上げました。

「そうか、って言うんだね。愛らしい名だ」
「はあ……、」
「俺は童磨。万世極楽教という宗教の教祖なんだ。俺の務めは、信者の皆を救ってあげること。勿論、可哀想な君のこともね。だから、君は今日から俺と一緒に暮らそう」

 彼は帳台のような形をした家具の、几帳の隙間より顔をのぞかせ、微笑みました。


「君の美貌はこの帷の向こうからでも俺を魅了する程の、何か不思議な、蠱惑的な力を持っているね。自分では気付いていないのかも知れないけれど……、君のその深淵のような色をした黒髪や、透き通った瞳、更にはその上の、形の良い翠眉、そして控え目な鼻に、朱い花唇……。さて、、俺は君のことが大変に気に入ってしまった。君さえ良ければ、もっと近くへ来てくれないか」

 彼の、虹色の光を輝かしく放つ虹彩、その神々しいまでの煌めきと神秘的な微笑みに、はすっかり心を奪われて、薄く口を開いたまま、吸い寄せられるように几帳の中へ入って行きました。
 彼女の目にもまた、彼が一層蠱惑的な魅力を持って映ったのです。









3



 は夜な夜な、父親の悪夢に魘されました。頭を打たれ、脳髄が揺れるような感覚を起し、手足の痺れ、痙攣、数々の罵詈雑言の幻聴、着物の下を這う汚らしい太い指。目蓋の裏にまざまざと現れるそれらの余りの鮮明さと卑劣さに慄き、覚醒すると、知らぬ間に涙が流れ、頬を伝い、枕を濡らしているのに気付きます。そうして一度目覚めてしまえば、はひとりで床へ就くのが恐ろしくなり、彼の元へ駆けて行き、しくしくと泣きました。その間、彼は何度も背中を撫でてやり、やがて穏やかな寝息が聞こえ始めると、そうっと彼女を横抱きにして、部屋へ戻してやるのでした。

「童磨さま、嫌、行かないで」

 泣き腫らした目蓋を僅かに開いて、自室へ戻ろうとする彼を、はか細い声で引き留めました。彼は踵を返して枕元へと近寄り、長い指を彼女の方へすっと伸ばして、優しく頬に触れました。

「こんなに枕を濡らして……、可哀想な、俺が君の望みを叶えてあげる」

 は頬を撫でる彼の手に自身の手のひらを重ね、父親を殺して欲しいと嘆願しました。彼は大きく頷き、了解して、部屋を出て行きました。


***



「頸を持ち帰っても良かったんだけれど、それではの悪い記憶を呼び起こしてしまうかも知れないから、鼻だけ削いで持って来たよ」

 翌日、そんなことを言いながら、彼は浅黒い肌色の団子鼻をの前に転がしました。彼にとって彼女の望みである殺人は、言わば日常茶飯の、造作ないことでした。しかしは忽ち大いに歓喜して、彼の胸に飛び込みました。

「嬉しい! 童磨さまが、父を殺してくださったのね」
「そうだとも。俺はのためなら何だってする。鼻も削ぐし、皮も剥ぐ。君のよろこぶ顔が見たいんだ」

 ふたりは抱き合って互いを見詰め、蕩けるような熱い視線を絡ませました。

「ああ、神様!」









4



「使いの信者に頼んで、洋服を拵えてもらったんだ」

 或る夏の、茹だるような暑さの夜、彼は浮き浮きと明るい面持ちで、白い木綿のワンピースをの眼前に掲げ、ひらひらと扇ぎました。
 肌触りの良い長袖のそれは、肩の部分に幅のある帯状の生地が波打つように縫い付けられ、襟や袖口、たっぷりと贅沢に生地を使い広がった裾には、の瞳の色に似た、透き通るような淡い水色の繊細な刺繍が施されていました。足元には艶々とした赤い靴が置かれ、の華奢な足が差し込まれるのを今か今かと待っていました。
 異国の、見たこともない形状の服飾に、彼女の心は躍りました。

「まあ、とっても素敵!」

 彼は喜ぶの手を取り、目線の揃うところまで屈み、向き合って、悩ましげな顔をして言いました。

「今の君の着物では、その溢れんばかりの魅力を引き立たせることなんて到底出来やしない。俺は君の秀でた眉目、白く豊麗な肌をいつでも最高の状態にして置きたい。これはすべて、君のために拵えたんだ。、早く着てみておくれ」
「でも、この服では、足の痣が……、」

 漸く着替える頃になって、は羞恥の表情を浮かべ、両手に服を握ったまま目を逸らし、口を噤みました。嘗て父親から受けた傷が痣となり、愛憎と執着を孕み、黒ずんだ蛇のように脹脛へ巻き付いているのでした。

「怖がらなくていい。こんな痣ごときで、君の美しさが消えることはないよ」

 彼はにっこり微笑んでの頤に触れ、親指の腹で薔薇色の小さな花唇をなぞり、口付けて宥めます。


「さあ、今すぐ着替えて、俺に見せておくれ」

 は静かに肯き、自ら帯締を緩めました。そうしてゆっくりと帯が解け、着物の衿が丸くなだらかな肩を滑り下りてゆくのを、彼は恍惚とした眼差しで見守りました。









5



 彼が父親を殺し、にとっての脅威は無くなり、畏怖の涙は消えつつあるように思われましたが、彼女の睡眠は一向に改善の兆しを見せませんでした。彼女の足の痣は度々疼き、襲い来る恐怖から逃れようと、彼を求めて目覚めました。


 満月の夜、悪夢に苛まれ覚醒したは、彼の部屋の向こうから、この世のものとは思えないほどの強烈な刺激を伴う悪臭を、鼻腔の奥に感じました。薄らと開かれた扉に恐る恐る近づいて行くと、其処には異様な光景が広がっていました。

「童磨さま……」

 彼が、信者の、人間の女の身体を、無心で喰らっていたのでした。


「君はまた眠れなくなってしまったのかな?」

 血に濡れ、油を撒いたように鈍く光る口元、蜘蛛のように艶めかしく動く骨張った手に、は存外驚きませんでした。人智を超越した神のやること為すことは、すべて等しく正しいものであり、卑しい貧民の娘である自分には余程理解の出来るものではないと、尊敬ともあきらめともつかない気持ちを彼へ抱いていたからかも知れません。

「貴方は一切の食事を取らないで、人間を食べて生きているのね」
「その通りだよ。だって、よく見てごらん、この部屋に充満する人間の死を。月光のようにほとばしる血を。こんなに素晴らしいご馳走、他にある?」
「人間って、美味しいの?」
「ああ、すごく美味しいよ。とくに若い女はね。子宮などはまるで、みずみずしい果実のようだ」

 彼もまた、驚き焦る様子を見せず、を抱きかかえて膝に乗せ、口角を吊り上げ、弧を描いて笑います。

も喰べてみるかい」
「ええ、ひと口だけ、わたしにください」
「そうかそうか、では……、君には少々歯応えがあり過ぎるから、柔らかくしてあげようね」

 彼は得意げに言い、三日月のように目蓋を細くして、口に含んでいた肉を数回咀嚼した後、の口へ噛み付くように接吻し、その口内へ肉を移し、喰べさせてやりました。

 柔らかいとは言え、彼女にとってその歯応えは充分なものであり、飲み込めずに暫く口の中で転がしていると、肉の表面から脂が滲み、舌の上でまろやかに溶けてゆきます。そうして嚥下した彼女の唾液と血とで艶めく唇の割れ目に、もう一度彼の長い舌が差し込まれ、今度は生温かい女の血が次々と注がれました。

 彼女の着ている寝巻きの裾から赤く染まった指が侵入し、汗ばんだ身体の表面をなぞり、むせかえるような血のにおいが全体を包んでゆくのを、は何か神聖な儀式を受けているのと同じような心持ちで、うっとりと受け入れました。


、おいしい?」
「はい……」
「ほんとうに?」
「実は、あんまりよく分からないの」
「そう、残念だなあ。でも俺は君のそういう、正直なところが大好きだ」
「ね、童磨さま、わたしも人間ですけれど、童磨さまは何故わたしを召し上がらないの?」
「うーん……、君は特別な子だからねえ」

 彼はの瞳の奥をじっと捉えて、首を傾げました。

「特別?」
「そうさ。この世の美をすべて備えた君のような人間に、俺は元来出会ったことがないもの」

 だからこそ、年頃の、栄養価の高く芳潤な状態になるまで俺がきっちり育て、必要な物はたっぷり与え、可愛がってやるのだ。可愛がって可愛がって、その美が絶頂を迎える頃に、俺はこれ以上ない法悦を全身に享受し、君を喰らうのだ。
 彼は胸の内に秘めた欲望を自制するべく、再びへ唇を寄せました。









6



 それから三年の月日が過ぎ、彼の寵愛を存分に受けたは、麗しい美貌と白くやわらかな肢体とを具え、肌は光沢を帯びて潤いに満ち、妖艶な美女に育ちました。


「ねえ童磨さま、わたしはこんなに大きく成長したのに、貴方はちっともお変わりにならないのね」

 いつものように、風呂から上がったは薄い寝巻きを身に纏い、彼の膝の上で火照った身体を擦り寄せて、甘えた声で訊ねます。彼はつげ櫛に椿油を塗り、艶々と黒く光るの髪を丁寧に梳いてやり、彼女が時折くすぐったさに身を捩って恥ずかしげに笑うのを、愉快そうに眺めます。

「君は人間だけれど、俺は鬼だからねえ」
「鬼は年を取らないの?」
「うん、取らない」

 は黒々とした毛先を指に絡め、弄びながら、彼の方へ振り向いて、羨ましいとでも言うように、彼の顔をじっとりと、舐めるように見詰めました。

「わたしも鬼になりたいものだわ」
「なりたいと言ったって、あのお方のお恵みがなければ、鬼にはなれないんだよ」
「あのお方って、どんな方なの?」
「この世で最も高貴なお方さ。俺は教祖だけれど、あのお方は言うならば、俺たちの神様みたいなものだ」
「それなら尚のこと、お会いしてみたいわ」
「それはなかなか、感心しないなあ」
「どうして?」
「ともすると、あのお方にを取られかねないからね」
「そんなの、有り得ないわ」
「いいや、有り得る。があのお方のところへ行ってしまったらと思うと、俺はもう気が気じゃないよ」
「あら、そんなことを言わないで。わたしは死ぬまで童磨さまのお側に居たいの。貴方こそが、わたしの神様なのだから……」


 が告げると、彼はの脇に手を差し入れ、軽々と抱き上げて、向かい合うように座らせました。それから彼女のふくよかな腰や尻のまわりを撫で、耳や頬、唇に啄むような口付けを落とし、彼女を無上の官能へと誘いました。

、俺とひとつになろう。そして永遠に共に生きよう」
「ええ、勿論! わたし、貴方とひとつになりたい。どうすれば、ひとつになれるの?」
「なあに、簡単なことさ。このまま緊く抱き締めてごらん」
「こうかしら?」
「もっと緊く、もっと……、もっとだ」
「こう……?」
「そう、いい子だね……、」


 が彼の背中へ手を回し、力の限り緊く抱き締めると、彼の身体の内側に漆黒の闇が広がり、の身体は少しずつ吸い込まれてゆきました。
 まるで底無し沼へでも沈んで行くように、彼の身体に埋れてゆくに、彼はひどく昂奮して、悦楽と感嘆の溜め息を漏らします。

「ああ、、俺は君と出会った頃から、君とひとつになるこの瞬間を、ずっとずっと夢見ていたんだ」
「まあ、何たる光栄でしょう」

 徐々にの身体からは腐臭が漂い、肋骨の軋むような音が聞こえ、彼と彼女との境界から、噎び泣くような声が漏れ出ました。


、怖いかい?」
「いいえ。わたし、ちっとも怖くなんかない。嬉しくって仕方がないの。それに此処は、真夜中みたいに暗くて、つめたくて…、なんだか眠くなってきたわ……」


 彼が悦びに満ちた呻き声とともにのすべてを取り込んでしまうと、櫛に絡み付いた黒く長い数本の髪だけが形見となり、取り残され、淋しく床に散らばりました。









7



 柔らかな茵の上で飽食による生臭い噯気を出した後、彼は自らの腹部を愛おしそうに撫でながら、虚ろな目をして呟きました。

「ああ、愛しい、愛しい。俺の身体の中で、永遠におやすみ。君の眠りは、もう誰にも、何にも遮られない……」









武満徹: Uninterrupted Rest Ⅲ. A song of love
2020.04.14