鐘の谷







 さんの車には、いつもクラシック音楽という種類の音楽がかかっている。クラシックっていうのは、こてんてきな、という意味なのだと、このまえ迎えに来てくれたときに教えてもらった。要するに、古い音楽ってことだよ。こてんてきがわからなかったので、さんにきいたら、そう言われた。

 さんの車のなかは、物が少ない。俺の座っている席の前にある物入れのなかに、日差しの強いとき用のサングラスがあるだけだ。ときどき、運転席とのあいだの飲みものなんかを入れるくぼみに、ガムが何粒か入っていて、ときどき、俺にくれる。俺は銀色につつまれたそれをポケットにしまって、個人戦の前とあとでひとつずつ食べる。はじめてもらったときはこの食べものがガムという名前だということも、味わいかたも知らなくて、いつ飲みこんだらいいのか訊ねたら、さんはにっこり笑った。飲みこまないでいいのよ。吐きだして、捨てちゃうの。
 今日、くぼみのなかは、空っぽだ。


「遊真くん、ボーダーはどう?」

 さんが、ハンドルを握りしめ、まっすぐ前を見つめたまま、いつもののんびりした話しかたで俺にきく。

「うん、楽しいよ」

 俺も前を見つめたままこたえる。手のなかのスマートフォンが震え、画面の光はかげうら先輩からのメッセージを知らせている。いまは通知を見るだけで、返事はしない。もうすぐ本部に着くのだし、俺はさんとのおしゃべりが、けっこう好きだから。


「あ、これ、あたしの好きな曲」


 曲が切り替わって、さんが言った。しずかなはじまりかたのそれは、高さのちがうおなじ音が何回もきこえてきて、しだいに音の数が、どんどん増えてゆく。低い音、おおきくて、力強い音、かなしげな音。

 さんが好きだと言うこの曲をきいていると、なんだかなつかしい気持ちになって、なぜだか、俺のいた近界の風景が頭に浮かんでくる。断崖に聳えるいくつもの石の要塞、白いその壁に触れたときの、指先に留まる粉っぽい質感、茶色に染みついた歴戦の血の跡、揺らめく国旗、艶かしく光る矛先、親父の声、広い背中、レプリカとした戦術訓練、ひとりぼっちの、夜のしずけさ。


「この曲を聴くとね、故郷を思い出すの」

 さんがのんびりとした口調で、つぶやくように言った。

さんの故郷って?」
「遠いところ」
「近界なのか?」
「あ、ごめん、そこまで遠くはないわ」
「それじゃあ、故郷ってどこなんだ?」
「近界ではないけれど、ここよりもずっと田舎で、人もほとんどいなくて、山や森や川がとっても綺麗なところよ」
「ほう、いなかか」
「いつか、みんなと行きたいわねえ」

 かなわない願望を話すように、ことばの最後をゆったりとのばして、さんは淡い嘘をついた。俺は、そうだな、とだけ言って、うなずいた。思う故郷はちがっても、俺もさんも、おなじように故郷に思いを馳せたことが、なにか共通のイメージを持てたような気がして、うれしかったのだ。


「いい曲だな」

 ほほえみながらそう伝えると、さんは振り向いて、鐘の谷、と言った。それからまた、前を向いてハンドルを握りなおした。

「かねのたに?」
「この曲の名前」
「…そうか」

 名前を知って、もう一度きいてみたいと思ったけれど、すでに次の曲に切り替わっていて、きけなかった。車は、もう本部へあとちょっとのところまで近づいていた。


 遊真くん、もう着くよ。さんはまた、のんびりとした優しい声で言った。シートベルトを外して、スマートフォンの画面を光らせ、時刻を確認する。路肩に車をとめたさんは、履いているジーンズのポケットからガムを取り出して、俺にくれた。手渡されたそれはさんの体温が伝わって、じんわりあたたかい。俺はそれをズボンのポケットの奥深くにしまって、軽くジャンプするように車からおりる。

「終わったら、連絡してね。迎えに行くから」
「うん、わかった」
「怪我のないように」
「りょーかい」

 じゃあ、と手を振りドアを閉める。そのまま大きくカーブして、さんは来た道をもどっていった。小さくなっていく車を見送って、俺は本部へと歩きながら、さんの故郷をぼんやりと思い描いてみる。そしていつか、行ってみたいと思う。鐘の谷。俺の知らない、彼女の故郷。







M.Ravel: La vallee des cloches
2019.06.26