しめやかに降る雨







 梅雨の晴れ間に、外に出た。太陽は少しずつ沈みはじめていて、西日が眩しい。わたしも諏訪さんも目を細め、気怠そうに伸びをして、何枚も持っている白い無地のTシャツの一枚を、被るように着る。胸のところに小さなポケットの付いた、二枚セットの、安い綿のTシャツ。諏訪さんは、ボトムに濃い色のジーンズを、わたしはダンボールに詰めた服の中から小花柄のロングスカートを取り出して穿く。スカートは心持ちマーメイドラインになっていて、ここ最近のわたしのお気に入り。
 玄関で諏訪さんはスエードのちょっといいビーチサンダルを、わたしはどこかの古着屋で買ったメンズサイズのスニーカーを履いて、爪先を鳴らす。ふたりで出掛けるとき、鍵をかけるのは諏訪さんの役目。

「あつい」
「湿気、すげえな」

 わたしが手を扇子がわりにぱたぱたとあおぐと、つられて諏訪さんも、Tシャツのおなかのへんをつまんで、ばさばさと豪快にあおぎ、空気を含ませた。

「こりゃ、ビールが美味いぜ」


 思ったとおり、霜がつくほど冷えた大ジョッキになみなみ注がれたビールは、最高においしかった。ジョッキの上から三センチほどの厚みで浮かぶ白く細かい泡、その下に輝く黄金色はいとも簡単にわたしたちを幸福な気分にさせる。

 わたしたちは、野菜にこだわっているという居酒屋でふたりきりのお別れ会をした。その店の料理は地元で採れた野菜を中心に、素材本来の味を楽しめるようなメニューになっていて、その中のおすすめと書かれた野菜ときのこの天ぷら串の盛り合わせ、塩で食べる冷やしトマト、こだわり大豆の厚揚げを注文した。肉好きの諏訪さんのために、牛すじと豆腐の煮込みも。


***



 先週、まだ小雨が降りつづいていた日の夜に、別れたい、と切り出した。キッチンの、換気扇の真下にいた諏訪さんはびっくりして、くわえていた煙草の灰をぼろっと落として、床に敷かれたキッチンマットの端を黒く焦がした。あわててタオルを水に濡らし、ごしごしと強く押さえつけながら、なんで、と言った。なんで、急に。


「諏訪さんといると、こわいの」

 こわい、という言葉だけでは片づけられないことを分かってはいたけれど、これよりふさわしい言葉が見つからなくて、黙り込んだ。諏訪さんといると、こわいのだ。いつか突然、諏訪さんがいなくなってしまうかもしれないことを考えると、こわくてたまらない。だからわたしは、ここから逃げる。

 ヒトなんていつか絶対死ぬのだけれど、だれがどこで、いつ死ぬかなんて分からない。諏訪さんみたいな仕事をしていたら、なおさらだ。若くたって、健康でいたって、あっという間に死んでしまうかもしれない。死ぬのなら、まだいい。わたしの知らないどこかで、ある日突然、いなくなってしまうかもしれない。門の向こうにさらわれてしまうかもしれない。生きているのか死んでいるのかも分からないひとを、わたしはずっと、待ちつづけることができるだろうか。希望を捨てず、祈りつづけることができるだろうか。そんなふうに考え始めると、たちまちこわくてたまらなくなって、涙ばかり出てくる。呼吸さえ難しく、全身が震え、眠れなくなってしまう。

 諏訪さんは煙草を灰皿にすり潰して、長いため息を吐いた。わかった。それと、ごめんな。お前のその不安は、俺には、取ってやれねえわ。本当に、ごめん。
 換気扇の下で、わたしたちはしばらく無言のまま抱き合い、しめやかに降る雨の音をきいていた。


 だいぶ前からいっしょに住んでいたので、別れを決めたあとも、すこしずつ荷物の整理をしながら、諏訪さんの部屋に暮らした。好きな気持ちがなくなってしまったわけではないから、ときどき、短いセックスもした。防衛任務のあととか、授業の前とか、バイトが終わってから、とか。わたしたちにはいつも時間の制限があったから、限られた時間で気持ちよくなれる方法を、知らないうちに身につけていた。お互い、くたくたに疲れた体でしたときには、これ以上ないほど心地よかった。でも、最後には必ず、どこか淋しい気持ちになった。


***



「お前、これからどうすんの」
「このあいだ借りた部屋に荷物持ってって、あとは、ひとりで気ままに暮らす」
「なに未亡人みてえなこと言ってんだ」

 諏訪さんは鼻で笑いながら、冷えたビールをぐびぐび飲んだ。わたしはスライスされた冷やしトマトにほんのすこしの塩を付け、箸ですくって口に入れた。

「諏訪さん、さみしい?」

 トマトを嚥下して、彼に問う。すでに酔っ払っているのか、耳や頬骨のあたりがほんのり赤らんでいるのが分かる。

「…まあな」

 割りと長かったからなあ、ふたり暮らし。
 ジョッキをテーブルに置き、萎んでいく泡を眺めて諏訪さんは言った。新しい部屋は、大学からも諏訪さんのところからもそう遠くない。わたしは、会おうと思えば会える距離だからいいじゃない、引越しの手伝いもよろしく、と彼の腕を小突いた。彼は串に刺さったままの椎茸の天ぷらに、お行儀わるくかぶりついた。

 わたしもお行儀わるくそれにかぶりついて、出会った頃のことを思い返してみた。当時、大学近くの居酒屋でアルバイトをしていて、そこに諏訪さんと、彼のボーダーでの友人でもある風間さんと、寺島さんと、木崎さんが来ていて、たしか、酔っ払った諏訪さんに話しかけられたんだっけ。

「あの、どこかで会ったことありませんか」

 わたしは最初、風間さんのほうが気になっていて──それは大学でも度々見かけたことがあって、寡黙な感じがミステリアスでかっこいいと思っていたから──諏訪さんのその言動はよくある酔っ払いの絡みだと思っていたのだけれど、翌日学食でばったり会ったとき、まったくの素面でも同じ文句で話しかけられたので驚いて、ちょっと照れくさくなって笑って、それからふたりで食事をしたりお酒を飲んだり、貴重な非番を使って映画を見たりしたんだった。わたしはちゃんと、諏訪さんが好きなのだった。


「こうして見ると、諏訪さんってすごくいい男だね」
「おい、いま気づいたのかよ」
「わたしには、ちょっと勿体ないくらい」

 牛すじと豆腐の煮込みを、木のスプーンで取り分ける。諏訪さんは煙草を吸って、店内の換気扇があるほうへ向かって煙を吐いて、それからわたしが取り分けるのをじいっと見詰めていた。



「はい」
「今度は、ちゃんとした一般人と付き合え。あんま忙しくない奴な。で、わがまましっかり聞いてもらえ」

 諏訪さんが、諭すように言う。彼のほうこそ、長年連れ添い、不治の病でもうすぐ死んでしまう夫みたいな、大仰な言いかたをする。わたしは泣きそうになるのを我慢して、豆腐を箸で四等分に切り分け、牛すじといっしょに食べた。すっかり味の濃く染み込んだそれは、歯を当てた瞬間に、ほろほろと形をなくして溶けていった。


 もう一杯ずつビールを飲んで、わたしたちは店を出た。太陽はすっかりその身を隠して、かわりに真っ白な月が、雲間から顔を覗かせている。
 今日は、諏訪さんの部屋に帰る。きっと明日も。あさっては、分からない。新しい部屋へ荷物を運んで、そこからはもう、ひとりかもしれない。諏訪さんのいない朝は、どんな気分なのだろう。想像してみるけれど、うまく想像できなくて、もういいやって、考えるのをやめる。やっぱり諏訪さんは優しくて、いい男だなあ、と、あらためて思う。

 久しぶりのお酒に、わたしは心地よく酔った。頭がぼうっとして、諏訪さんの腕にしがみつき、肩に頬擦りして煙草やお酒のにおい、火照る体温を感じながら、湿った夜の空気の中をゆらゆらと歩いてゆく。空気はまだ雨のにおいを纏っているけれど、アスファルトの地面はほとんど乾いていて、体の隙間を通り抜ける風は、ひんやりとして、淋しさを助長する。
 好きなのになあ。声に出さずに、つぶやいた。好きなのに、近くにいるのに、臆病なわたしのせいで、いつの間にか、こんなにも遠くなってしまった。わたしたちはもう、ひとりとひとりなのだ。ひとりの夜は、こんなにも長い。







浅川マキ: 淋しさには名前がない
2019.07.01