スライ・アイズ







 ランク戦に負けたから、気が立っているのかもしれない。相手部隊の挑発に乗せられて、味方の連携を乱して、戦術さえ置き去りにして、たったひとりで突っ込んで攻撃に出て、首を切ろうとしたまさにそのとき、狙撃手に脳天を一発。
 貫通。
 即死。
 しかも、その瞬間を上の階のラウンジから同級生の彼に見られていて、まさか彼に見られているなんては思ってもいなかったので、恥ずかしくて、情けなくて、やるせなくて、それで余計に、腹が立っているのかもしれない。


「お疲れ」


 彼は、の部隊の作戦室へ無遠慮にやって来て、浅く軽い労いの言葉を掛けたあと、「いろいろと」と付け足して、にっこり笑った。その薄ら笑いが気に入らないのだと、彼女は、じっと彼を睨みつける。

「馬鹿にしに来たんでしょ」
「やだなあ、俺はちゃんが心配で来たんだよ」
「そういうの、要らないんだけど」
「部隊のみんなはどこ」
「先に出てった」
「そう。さっきの、みんなに謝った?」
「誠心誠意、謝りました。あんたが来る前に」
「へえ、そうなんだ」

 自分がいちばん足引っ張ったこと、分かってたんだね。
 そう言って彼はのもとへと近寄る。身長差のせいで、自然に見下ろされるような形になる。今の彼女にはそれさえも気に入らず、不服そうに顔をしかめた。先刻までの、隊員たちへの謝罪の言葉が頭を巡る一方で、彼への怒りは、ますます膨れ上がってゆく。

「用がないなら、さっさと出てってもらえます」
ちゃん、ほんと俺に冷たいよね。そんなに俺のこと嫌い?」
「きらい! だいっきらい」
「ははっ」

 また、感情的になってるよ。
 そう言われて、はいよいよ頭に血が上り、勢いよく彼の胸ぐらを掴んだ。さっきから余計なひとことを言いすぎるのだ、この男は。せっかく隊員たちと反省会をして──とは言っても、今回の敗因は完全に彼女ひとりの責任なので、ただひたすらに謝りたおして終わったのだけれど──落ち着きを取り戻しはじめたばかりだったのに。薄っぺらな微笑みを貼りつけたまま、彼は、胸元に押しつけられた彼女の握りこぶしを手のひらでぐっと強く包んで、こらこら、と宥め、引き剥がした。こういうとき、男女の体力差をは心底恨めしく思う。しかもなによ、こらこらって。ガキに言うみたいに。


「俺はちゃん、けっこう好きなんだけどなあ」
「ふうん」

 アリガトウゴザイマス。は機械みたいな棒読みで礼を告げ、終わりに、つんと口を尖らせて見せた。彼はシャツの皺を整えてから、そっぽを向いた彼女の顔を、突き出された唇を、追いかけるように覗き込む。また馬鹿にされるのではないかとじっとり上目をつかっていたら、なんだかちょっと真剣な眼差しで見詰められたので、は驚き、たじろいだ。

「…なによ」
「目のところ、なんか付いてるよ」
「なに? どこ?」
「睫毛のとこ。取ってあげるから、瞑ってて」

 生身の体どうしがいっそう近づいて、影が差す。彼が、の肩を優しく握る。
 ちょっと、待って。
 たどたどしく抵抗する彼女を無視して、影はより濃く彼女の上に降りてゆく。


「じ、自分で取れるから!」


 は身を捩って、肩に乗せられた手を振りほどき、両の目蓋をごしごしと擦って、それからまた、彼をじっと睨んだ。けれども彼の目は怯まず、真っ直ぐに、彼女を見つづけている。

「相変わらず、聞き分けのない子だね」

 弧を描くようにふわりと目じりを下げて笑い、彼は長い息をついた。
 笑いながらため息つくひと、はじめて見た。器用なやつ。
 そう思って、は一瞬、油断した。唇にやわらかく、あたたかい感触。視界が、真っ暗になる。

 茫然。
 と、沈黙。

 なんとなく、は悟った。
 彼女は、纏わりつくこの空気の感じが何なのかを、知っていた。たったいま、ふたりのあいだに密やかに芽生え始めている、むずがゆい、この感情も。きっと知っている、けれど、名前にするのは憚られて、つい、知らないふりをしてしまう。


ちゃんさ、せっかく可愛い顔してるんだから、もっと素直になったほうがいいと思うけど」
「あんたこそ、いい加減にしてよね」
「え?」
「あたし、わかってたんだから」

 あんたが睫毛に付いた塵を指摘したとき、気づいたの。
 犬飼、最初から、キスしようとしてたでしょ。

 彼は、ぽかんと口を開けたまま、細められた目をまあるくした。はもうじっとなんてしていられずに、下を向いたり、髪を耳に何度も掛けなおしたり、出入り口の扉のほうへ目を泳がせたり、あらゆるものを視界に取り入れ気を紛らせようとする。そして、部隊の誰かが、忘れ物かなにかを取りに戻ってきてくれないかしらと切に願った。そうしたらこんな空気、すぐに壊してしまえるのに。

 静まりかえった作戦室。真っ黒なモニター、無機質なマットレス、片づいた会議机、ついさっきまでヒトの温もりのあったソファまでもがどこか他人行儀な視線を送りながら、ふたりを囲んでいる。まるで自分の隊室じゃないみたいだ。彼女は渦巻く緊張と輪郭のない胸の騒めきとを必死に抑制しながら、それでも客観的に今起きていることを、確実に捉え、理解しようと試みる。
 あははっ。
 それを引き裂くように、彼の笑い声が高らかに響いた。


「それなら、ちょうどいいや」

 もう、オトモダチはお終い。無駄な駆け引きは、やめにしよう。

 骨張った、細長い指がの小さな顎に添えられ、くいと持ち上げられる。迷うことなく合わせられた目、目蓋はいつものようにゆるやかな曲線をつくってはいるけれど、その奥の眼光は、ちっとも笑ってなどいない。昂っていた最初の感情はいつのまにかどこかへ消え去ってゆき、彼女の体は金縛りにでもあったかのようにぴたりと固まり、上向きになった唇に、もういちどやわらかく、影が差す。赤く滑らかな舌がその割れ目をわずかに開いて侵入し、歯列や粘膜のおもてをなぞり、そのひとつひとつをゆっくりと堪能する。彼女はしだいに息の仕方を忘れ、今度こそ胸ぐらに掴みかかってやろうと思うけれども、考えることはできても動くことはできなくて、体はすっかり固まったまま、わずかに残った力で、彼の腕を撫でるように押し返すだけ。

「ほんと、むかつく」
「俺はね、いま、ものすっごく楽しい」
「…悪趣味」

 艶やかに濡れた唇でたっぷりと悪意を込めて言えば、彼は湿った呼気を言葉に絡め、彼女の耳元へ囁きかける。そしてその挑戦的な眼差しに、思わず背筋が粟立つ。
 顎を押えていた指先が、頭の天辺から耳のあたりまでを滑るように撫でてゆく。そのとき漸くは理解した。彼はきっと、こうやって、いろんなものを手に入れてきたのだ。
 狡猾に。
 それでいて、強引に。

「どうして今日、ここでふたりきりになれたと思う?」

 名状しがたいなにかが、胸のなかに、しとしとと雪のように降り積もってゆく。ほんとうは、知っている。名前にするのは憚られて、透明の、つい知らないふりをしてしまうもの。彼の双眼が、それを、彼女を、捕えて離さない。そうしてふたたび薄っぺらな微笑みを携え、の顔に、影を差す。







'sly eyes'
2019.07.03