おとこのかお







 彼は、あたしの前でだけ、おとこのかおをする。

 家族といるときや、隊長として活動しているときには絶対に見せない、おとこのかお。それは煙のように薄暗くかすんでいて、梅雨の終わりの紫陽花みたいにくたびれた哀愁があって、なにか漠然とした不安や孤独感みたいなもののヴェールに包まれていて、だれかのやさしさを必要としているような、心の奥底から安息を求めているような、どんなふうに言ったらいいのかわからないけれど、とにかく寂しさに満ちた、ひどくセンシュアルな、そんなかお。


 たとえばあたしの下宿先のアパートでいっしょにお風呂に入っているとき、さきに湯船に浸かった彼を横目に、毛先へ丁寧にリンスを撫でつけていると、彼が湯船の縁に肘をついて、例の、おとこのかおをしながらあたしをみつめる。女の子は大変だな、とかなんとか言って。あたしのぜんぶを包容するような、やさしい口振り、でも、それでいてちょっとだけ泣きそうなまなざしで、あたしの心とからだを、じんわりと溶かしてゆく。
 あたしは丁寧に髪を濯いで、それからシャワーの栓を捻って髪の毛先をきゅっと絞り、簡単に水気を切ってから、彼に背を向け、彼の脚のあいだにしゃがみこむようにして座り、湯船に肩までしっかり浸かる。准くんのほうがあたしなんかよりもずっと、大変でしょ、いろいろ。そう言って振り向くと、彼はまたおとこのかおをして、あたしの火照った頬に、そっと唇を押しあてる。
 ふたりきりの浴室はどこもかしこも水気を帯びて湿っぽく、そのせいか空気が薄くて、熱くて、頭がくらくらする。掠める息が、首筋に流れる水滴を震わせ、水面に沈み、そこからいくつもの小さな波紋が生まれる。あたしはどうしても唇に触れてほしくて、くるりと上体の向きを変え、首をめいっぱい伸ばして、ねえ、と、催促する。ねえ、准くん。

 髪もからだも、ろくに乾かしもしないで、タオルを巻きつけたまま、あたしたちは寝室までの短い距離のあいだにも、たくさんのキスをして、ベッドへ移る。なまぬるい舌の、ざらざらしたおもてを擦り合わせて、手はお互いのからだの線を確かめるように、夢中になって撫でまわしながら。そうしてスプリングのきいた上へ横になれば、痺れるような甘い熱が、まるで電流みたいにじりじりと背中を這い上がっていく。からだの内側が抑えきれないほどぞくぞくして、苦しくて、そこからはもう、蕩けるような儚い時間のはじまり。濡れたシーツのことなんか、気にしなくたっていい。どうせ洗ってしまえばなにもかも、水浸しになるのだ。


 あたしのからだが、まだそういった類の心地よさに慣れていなかったころ、いろんな体勢をとるたびに、大丈夫か、痛くないかと、いちいち確認していた准くんだけれど、このごろは、言葉少なに、すこしだけ乱暴にするときもある。でも、あたしはそういうときのほうが、彼のほんとうの、からだの芯から快楽を求めて動いているような、そんな姿が見られた気がして、それがすごく人間くさくて、いとしい、と思う。

 いとしい。

 准くんがあたしの片脚を大きく開いて持ち上げて、ぐいぐいからだを押しつけて、突き刺して、いちばん奥まで到達したところで、何度も何度も揺さぶるものだから、あたしの見えている世界は外側からすこしずつ白い霧がかかって、だんだんと濃くなって、それに比例するようにすこしずつ意識がとおくはなれていって、わずかに映る視界の片隅でとらえた彼のかおは、やっぱりおとこのそれをしていた。







2019.07.15