檻の中で
※変な話
給湯室に置かれたコーヒーメーカーから焙煎された豆の芳醇な香りが漂い、作戦室を満たす。時計の針を見遣ると、それは既に日が暮れて、夜になってゆこうとする時間だった。
俺は頭の中で、彼女の名前を唱える。風に靡く髪、形のいい目鼻や唇、丸みのある肩の線、なだらかなふたつの丘、しなやかな手、引き締まったくびれ、その下の膨らみ、そこから真っ直ぐに生えている脚、華奢な足首なんかを、ひとつずつ、舐めるように見詰めながら、彼女をそこに存在させる。そうしてカップボードに自分専用のマグを仕舞い、彼女の部屋へ向かおうと荷物をまとめ始めたとき、ふと思い出したように、辻ちゃんが口を開いた。
「
さんと喧嘩でもしてるんですか」
「そんなふうに見えた?」
「…少し」
今日、廊下ですれ違って挨拶したとき、目も合わせてなかったので。
俺は苦笑いして、爪の先で頬を掻いた。悪いけど、それは誤解だよ。俺と
さんはむしろ、目には見えない赤い糸で縫い閉じられたみたいに、固く愛し合ってるんだ。それはもう、お互いの肉体や精神なんかがどろどろに溶け出して、人間の概念を飛び越えた先にある、一種の楽園みたいなところで。つとめて冷静な口調で話せば、彼は耳を赤く染め上げて、先輩の言ってること、よく分かりません、と返した。
***
さんは、ボーダー隊員として任務や訓練にあたっているとき、ほとんど他人のような態度で俺に接する。年上の威厳とでも言うのだろうか、たいした年齢差でもないのに、俺のような高校生とはまったく違うのだというような大人びた雰囲気を醸し出して、淡々とそれらを遂行する。そのくせ、俺が彼女のアパートへ足しげく通うのを、ちっとも拒絶しない。
組織の中と外とで、ひっくり返したように変わる彼女の態度には、はじめは驚いたものの、だれひとりとして知らない彼女の二面性、ありのままの喜怒哀楽の表情を自分だけが知っていて、独り占めしているのだという優越感に俺はひどく恍惚とした。
「会いたかった」
彼女は玄関口に立つ俺を包み込むように抱きしめ、握れば簡単に折れてしまいそうな、か細い腕を俺の首に巻きつけ、後ろ頭を優しく撫で、遠方からはるばるやって来た恋人との再会を果たすみたいな仰々しい科白を、深いため息のように吐き出した。
分厚い玄関扉に鍵をかけ、彼女を抱き寄せ口づける。俺がすこしでも舌を出せば、彼女もそれに合わせて舌を出す。そして出された舌に歯を立てないよう唇で優しく食むと、彼女も同じように俺の舌を食む。二本の脚だけで体を支えるのが難しくなってきた彼女は、壁に背を預け、逃げるようにすぐ脇の洗面室へと入ってゆく。狭い直方体のそこは、まるで小さな檻のようにも見えた。彼女を捕え、もういちど深く口づけると、唇の端からはため息にも似た声が漏れた。
「
さん、ここに手、ついて」
彼女の身体は簡単に翻った。洗面台の縁に肘をつき上体を屈ませ、膝丈の細身のスカートを捲り上げれば、湿り気のある、甘酸っぱい蜜のにおいが鼻腔を侵した。
さんは、もう充分に濡れていた。
いつだったか、死は愛を強くするのだと彼女は言った。
死が身近にあるこの街では、今日もどこかで、誰かが消えている。当事者以外の、大勢の人たちはそれに気づきもしないし、組織の人間でさえも、誰かの死や不在を当たり前のこととして、軽んじている。
その誰かが、他の誰かの大切な人であるかもしれないのに。
そうして取り繕った上辺だけの平和を啜り、真実は淀みに隠され、内幕を知る俺たちは、いつ訪れるかも分からない不在におそれ、怯え、愛を深めてゆく。
彼女の言うことが本当ならば、愛は、死を強くするのだろうか?
折り重なるように背を屈め、右の手はカットソーの中へ潜らせ胸の膨らみや腰の鋭敏な皮膚の上をなぞり、左の指先はショーツをずらし、彼女の水蜜桃のような滑らかな曲線を撫で、その谷間の深くにある濡れそぼった入り口へと進む。はじめは中指をゆっくりと中の感触を確かめるように差し込んでいく。奥へとつづく狭い道はゆるやかに湾曲し、到達した先にはふかふかした粘膜のベッドがある。あまりに滑りがいいので、俺は中指を奥へと差し込んだまま人差し指もそこに含ませ、引き金を引く仕草とほとんど同様にそれらの指の関節を窮屈に折り曲げて、ベッドの表面を引っかいた。何度かそれを繰り返すと、粘膜の擦れる音が小さな檻の隅々に響き、彼女の短い嬌声が、蛇口から垂れる水のように一滴ずつ鼓膜を震わせた。
「ここで最後までしてもいい?」
さんの体が二、三度規則正しく跳ね、達したことが分かると俺はそっと指を引きぬいて、彼女に問うた。頸や首筋に唇を寄せ、耳に噛みつき、二本の指に纏わりついた彼女の体液を舐めて見せる。しょっぱいような、苦いような、言いようのない風味が舌の上を転がり、それは味わう間もなく消えてゆく。彼女は額に汗をかき、顔全体を隠すように垂れた髪の向こうで眉根を寄せ、切なく、死に満ちた、虚ろな眼差しで俺を見詰めていた。
「来て」
スカートの裾を握り締め、肩を大きく上下させ震える四肢で一所懸命に身体を支えながら、彼女は、両眼に今にも泣きだしそうなほど涙を溜めて、俺を、俺だけを映していた。
2019.07.28