その日、空は朝から冴えない色をしていて、太陽は、単調な光を地上へと投げていた。
 新之助は通学用の鞄に課題を一式詰め込んで、学校の図書館の一角にある自習スペースへ向った。夏休みと冬休み、朝九時から解錠されている図書館には受験を控えた三年生がほとんどで下級生の姿は少なく、また知り合いが少ないこともあり、誰にも邪魔されず、課題に向き合うことができた。
 窓に沿って一台ずつ仕切り板で隔てられた机と椅子が規則正しく並び、決して真新しくはないそれらの、奥から三番目に座る。いちばん奥には毎日のように朝から晩まで三年生の男子生徒が赤い装丁の参考書を広げ座っている。新之助は彼の丸い背中を横目で見てから、鞄を広げた。

 夏休みにも関わらず、多くの生徒たちが登校していた。部活動のため、補習のため、課題のため、理由は様々だったが登校するときは揃って制服或いはジャージ姿で来るので、登校日となんら変わりなく感ぜられる。なかでも図書館は常に空調が効いているため、とくに人気があった。午後の遅い時間に来ようものなら、隣にあるディスカッションスペースのテーブルまで生徒たちでいっぱいになりとても集中できない。それに比べて午前の閑散とした館内は物憂い雰囲気があり気に入っていた。


 一時間ほど経っただろうか。柱に取り付けられた時計を見て、そろそろかと思う。出入り口の付近を眺めていると、思った通り、彼女が現れた。

 は新之助と同じ二年生であり、三年生ばかりの午前の来館者のなか、彼女はいつも自習スペースの奥から二番目の机を使っていた。新之助が三番目の机を選んだのは彼女のためでもあったし、自分が彼女の隣を確保するためでもあった。
 新之助はどうもが気になって仕方がなかった。クラスは違えど、同学年ならば教室は目と鼻の先にある。登下校時や休み時間の廊下、集会など、面と向かって話をしたことはないが、自分と同じ空間に彼女の姿を見つけたとき、なぜだかいつも、彼女を追ってしまう。勉強も運動もそこそこ、清潔感はあるものの、飛び抜けて美人というのでもなく、類まれな才能があるのでもない。しかし他の女子生徒とはなにかが違う。におい、と言えばいいのだろうか、彼女の周りに漂う空気や可憐さが、新之助には色めいているように見えた。実際のところ、彼女に告白した男子生徒は何人かいたそうだが、彼女はその誰とも付き合っていない。彼女には、男を惹きつけるなにかがあるらしかった。


「暑い」

 着席するなり、はひとりごちて、鞄から取り出した下敷きを扇子がわりに扇ぎ出した。仕切り板の向こうから、彼女の汗と、僅かに纏わせた香水から、ヘリオトロープのバニラのような甘い匂いが風に運ばれて、新之助の視線は無意識に彼女のほうを向いた。はそれに気づきもせず、ブラウスの釦を二つほど、胸元の辺りまで外し、風を通した。襟元の生地が風を受けて盛り上がり、その隙間から、下着の輪郭、淡いレースの装飾が顔を覗かせた。視線を向けたのは自分自身であるのに、新之助は恥ずかしさに顔を赤くして、紛らせようとふたたび数学の課題に向った。

 それから暫く、も新之助も、静かな図書館の空気に溶けていた。しかし、新之助は先刻の下着の繊細な縁取りが頭から離れず、それ以降、設問に答える速度が格段に落ちていった。単調な光に晒され浮かび上がる白い肌を想像し、ふたたび彼女の方へと視線を傾けたとき、机の上のアルミ定規が滑り、床へ転がった。古びた空調から吐き出される風の微弱な音、館内の重たい静寂を割くように、無機質な音が響く。それに気づき、いち早く顔を上げた彼女が、椅子に座ったまま手だけを床へと伸ばし、彼の定規を拾った。
 ふたたび、開いた胸元からあの繊細な装飾が、さらに今度はその下の、わずかに膨らみを持った柔らかそうな白い肌までが顔を覗かせた。そして新之助はその白く緩やかな勾配の途中に、小さな痣があるのを見つけた。治りかかっているのか、赤味は消えくすんだ紫色に滲んでおり、その境界はぼんやりと薄らいでいる。

「どうぞ」
「あ、すっ、すみません! あの、あ、ありがとう、ございます」
「ふふ、どういたしまして」

 手渡された定規を受け取りぎこちない挨拶を交わすと、はにっこり微笑み、机に向った。新之助はぎょっとして、つい顔を逸らし、かたく目蓋を閉じてしまう。受け取る際に触れた爪先の感覚が、手のひらに微かに残る。あまり長くはない、美しく整えられた丸みのある爪が手のひらの皮膚を掠め、すぐに離れてゆく。もし握り返していたら、彼女はどんな反応をしただろう。


、帰るぞ」

 背後からの突然の気配に驚き振り返ると、ひとりの男子生徒が彼女の真後ろに立ち、優しく肩を掴み、名前を呼んだ。上履きの色から判断するに、彼は三年生だった。新之助は図書館ではあまり見かけない顔だと思いつつ、の方を見遣ると、彼女も同様に目を丸くし、びくりと肩を揺らして振り返った。それからすぐに穏やかな表情を取り戻し、明るい声音で「お兄ちゃん」と言った。

「早かったのね」
「今日は補習の最終日だったんだ。午後からは塾へ行く。ももう帰ろう」


 兄と呼ばれたその男は、よく見れば妹である彼女と目鼻立ちに似通ったものがあり、すぐにふたりが同じ親の子であることが分かった。また、新之助は彼女に兄がいたことを知り、直接訊ねることはできなくとも、彼女の新たな内面を知ることができたことに嬉しささえ感じた。彼は耳をそばだて、何もなかったように課題の続きに取り組んだ。

「支度するから、ちょっと待ってて…」


 彼女の返事のあと、それまで弾んでいたふたりの会話に、妙な沈黙が生まれた。そのとき、新之助はふたりの間に漂う空気に、多少の違和感を覚えた。その辺の兄妹のそれとはなにかが違っている。ふたりの距離感、肩への触れ方、が返事をした直後、覗き込むようにして、ぐっと近づいた兄の顔。そこから先は、仕切り板に隔てられ、確かめることができない。新之助はペン先をノートに押し付けたまま、何も書かずに俯いた。書かなかったのではなく、書けなかったのかもしれない。とにかく頭を深く沈め、視界を遮断させ、何も見ていないことにしなければならないと思った。そして自分のスラックスの膝を見詰め、の胸元の、小さな痣を思い出した。自然な形で口を開いたときと同程度の大きさの皮下出血、滲んで消えかけてはいたが、その縁に薄らと歯の跡があったことに気づく。

 新之助は、ひとつの仮説に辿り着いた。恐らくあの痣は、彼女の兄がつけたものだ。兄妹ふたりの隠しきれない歪んだ愛を、密やかに育むために。互いが常に離れられない関係であることを示すために。時にそれを見せつけ、渦巻く欲を満たすために。
 頭の中で、これまでの彼女の、朗らかな少女としての断片が、ひとりの女に形を変える。抱いていた彼女の果敢無い幻影が、音もなく崩壊してゆく。真夏の暑さの中、ほんの一時、釦を外しただけなのに。たったそれだけなのに。彼女の秘密が、瞬く間に零れ落ちてゆく。
 そこにあったのは、異常なほどの愛だった。


「襟、肌蹴てる」

 女から体を離し、男が言う。

「だって、暑かったんだもの」
「見苦しいから、早く締めなさい」
「はあい」

 男は仕切り板から顔を出し、眉を下げ、低く優しい口調で申し訳なさそうに隣の新之助に話し掛けた。

「すみません、うるさくして」
「いえ、大丈夫です」
、ほら行くぞ」


 先に外へと出て行った男を、遅れてが追い掛ける。釦ふたつ分を開いていた胸元はひとつ分になり、ほんのわずか鎖骨が見える程度だった。ふたりの甘い空気に誘われた新之助が、顔を上げ出入り口を見ると、丁度振り返った彼女と目が合った。彼女は右手の人差し指を口元に添え、秘密めいた微笑みを浮かべ、「辻くん、またね」と言った。新之助はすぐにまた顔を逸らし、何も言えず窓の外に目を遣った。空には低く垂れ込めた雲が広がり、光は遮られ、今にも雨が降り出しそうだった。

 一度も同じクラスになったことがなく、共通の知人だっていないというのに、なぜ彼女は俺の名前を知っているのだろう。そう思い、新之助は所持品の中で唯一彼女の手に触れた銀色の定規を筆箱から取り出し、裏返した。そこにはいつ記したのかも知れない、薄らと消えかかった自分の名前があった。







2019.07.30