悲しい鳥たち







 見上げれば、昨日までの雨が嘘のように感じられた。空には雲ひとつなく、水彩で塗り潰したような青が広がっている。それでも、アスファルトにはまだ昨日の名残りがところどころに水を張っていた。ふたりは手をつないだまま、水たまりを避けてくっついたり離れたり、よろめき合ったりしながら歩く。おそろいの、くたくたになったヴァンズの黒のオールドスクールを履いて。


 あたたかな午後の日差し、なまぬるい風が鼻をくすぐる。
 春の匂い。
 今日は期末試験の最終日だった。試験期間中は通常の授業形態と異なるため、下校時刻が早くなる。二月に実力テストを終えたばかりのこの試験は出題範囲が狭く、春休み間近ということもあって放課後まで教室に残ってテスト勉強をしている生徒は疎らだった。とくに公平やにとっては、この期間が普段よりもふたりきりで居られる時間を増やすことのできる数少ない機会だった。



***




 バーガークイーンの一階にある注文カウンターで公平はハンバーガーのセットを、は単品のフライドポテトとバニラシェイクを頼んだ。若い女性の店員に「トレーはひとつでよろしいですか?」と聞かれ、が調子よく「はい」と答えたので、公平はふたりぶんの軽食が乗せられたトレーを二階のテーブル席まで運んだ。ドリンクのカップが倒れてしまわないようバランスを保ちながら、どのテーブル席に座ろうかと悩むの背後をついていく。
 公平は、通学用の鞄をバックパックにして良かったと心から思った。トレーを両手できちんと持つことができるし、恋人の手を握って歩くこともできる。


「この席にしよう」

 ベンチシートの席を指差し、が鞄を置いて座る。公平もトレーを置き、テーブルを挟んで向かい合うように座った。そうしてすぐにハンバーガーの包み紙を開いて、セットの炭酸飲料に口を付けた。


「ポテトだけじゃ足りなくね?」

 公平はハンバーガーを頬張りながら訊ねる。

「いいの。夜ごはんが食べられなくなっちゃう」


 が唇を尖らせて、ポテトを一本ずつ引っ張りだして食べる。その仕草は小動物のようだった。たとえばリスとか、ハムスターとか、ウサギのような。おちょぼ口で、器用に前歯を使って食べている。ときどき、ぱちりと目が合って「なによ」と膨れる。美しく上向いた睫毛が、かすかに揺れる。頬杖をついてがポテトを嚥下するのを眺めていると、無意識に笑みが零れた。

 公平は今夜、防衛任務を控えていた。ここへ寄ったのは、仕事前の腹ごしらえをしておくためでもあった。ほんとうの目的は、と時間をかけてゆっくり話をするためなのだけれど、あんまり素直に本音を伝えるとからかわれてしまうから言わない。彼女には一度でも調子に乗せると手に負えない部分があるのだ。



 期末試験の出来はさほど良くはなかった。かと言って特に酷いわけでもなかったので、話題にのぼったのははじめのうちだけだった。

 一緒に過ごすときには、どれだけ取り留めのない話をしていても必ずボーダーでの話につながった。学校こそ同じものの、クラスも組織での階級も違うふたりをめぐり合わせ、狂わせ、つなぎとめているのはボーダーだけだった。ふたりはランク戦の解説をしたときの話や、戦術の批評や、前回の防衛任務の最中に起きた出来事、同じポジションの隊員の噂話、作戦室での雑談など──あの巨大な、四角い建物に出入りする人間にしか分からない、なにか秘密めいたことを、時にくすくす笑いながら、時に眉をひそめて、真剣なまなざしで語り合った。
 まるで放課後の高校生たちが、部活動の話やアルバイトの話や夢の話をするように。彼らとは別の、ずしりと重たい錨のようなものを背負っているはずなのに、騒々しいBGMの流れる店内でふたりだけが湖に浮かぶ小舟のようにふわふわとたゆたっていた。



***




「…そろそろ行く?」


 が時計のかわりにスマートフォンの画面を光らせて言う。公平はストローで炭酸飲料の最後のひと口を吸い上げた。氷の揺れる音がした。

のシェイク飲まして」

 自分の飲み物だけでは足りなかったのか、の残したシェイクも飲み干してしまった公平は「よし」と勢いをつけて席を立った。もそれにつづいてパタパタと階段を駆け下りていく。


「ねえ、公平」
「んー?」
「明日から、また雨降るらしいよ」
「げ。まじか」
「うん。いまアプリで見たの。もしかしたら、今日の夜から降り始めるかもって」

 が片手でスマートフォンを弄りながら、もう片方の手で、公平の宙ぶらりんの手をやわらかく掬い上げた。するすると絡み合う指先。


「防衛任務、気をつけてね」
は非番だろ?」
「うん、今日は完全オフ。明日から地獄だけど」
「いいなー。雨降ると面倒くさいんだよなあ」
「そう?いいじゃない、トリオン体なんだから」
「そーだけどさあ…」

 握られた手の甲を公平の親指が撫でる。伝わる体温が、離れたくないと言っているようではたまらなく愛おしい気持ちになった。


「死なないでね?」

 胸の高鳴りを抑えるように、が冗談めかして言う。ひどく不謹慎な科白は、公平の耳に真っ直ぐに届いた。そして彼は呆れたように鼻を鳴らし、自信たっぷりに笑った。

「死なねーよ」



***




 この信号を右に曲がって大通りの交差点まで出たら、束の間の逢瀬が終了してしまう。ふたりは横断歩道の脇に建つ雑居ビルの蔭に隠れて、短いハグとキスをした。


「送ってあげられなくてごめんな」
「ううん、大丈夫。また今度ね」
「家着いたら連絡して。終わったら電話する」
「わかった」
「帰り、気いつけろよ」
「うん。ありがと」

 絡んでいた指がほころび、同じ方向を向いていた脚はそれぞれの目的地へと転換していく。



 帰り道、は反対側の歩道を歩く高校生の男女とすれ違った。この辺りではあまり見かけない他校の制服を着て、けらけらと笑い、互いの肩をぶつけながら歩く。鞄には、対になったキャラクターのぬいぐるみのようなキーホルダーがぶら下がっていた。思わず立ち止まって、彼らの後ろ姿を見詰める。
 彼らは恋人どうしで、デートをしていた。つい先刻まで自分たちがしていたのと表面上はさして変わらないように見えたが、はなにか漠然とした違和感を覚えた。

 普通のデート。

 にはもう、何が普通なのか、正常なのか、一般論なのか、正直なところよく解らない。三門市に生まれ育ち、中学生の頃ボーダーに入って、ボーダー推薦で高校生になった。きっとこのままエスカレーター式に大学へ上がる。あの時ボーダーへ誘い入れてくれた友達は、もうここには居ない。たくさんのかなしみを水底に沈めてきた彼女は、今がそれなりに楽しくて、それなりに幸せなのだから、それでいいのだと思う。
 けれども公平とは、いつか“普通のデート”がしてみたいとも思うのだった。たった一日だけでいい。誰にも、何にも縛られずに、ふたりきりで、どこか知らない遠くの場所に行ってみたい。
 三月の、春の匂いのする風が、短く手直しされたのプリーツスカートの裾をひらひらと揺らした。







M.Ravel: Oiseaux tristes
2019.03.13