とろとろ







「ねえ、まだ?」
「まだまだ」


 読んでいたエッチな漫画本をテレビ台の横に積み置いて、あたしは匍匐前進をするようにじりじりと慶くんに詰め寄る。
 ふつう、こんなにおおきなおっぱいの女の子は絶対にいないんだからね。
 ぜったい、のところを強くして言うと、慶くんは漫画の世界だからいいんだよ、と目を見ないで言った。


 慶くんには、いま、時間がない。

 単位がもらえるかどうかがかかった、だいじなレポートの提出が、明日の正午に迫っているのだ。ほんとうは明日の朝にはボーダーのお仕事が入っていたのだけれど、このレポートをなにがなんでも出さなければ俺は死んでしまうとかなんとか言って、急遽、諏訪さんという先輩に交代をお願いしたらしい。缶ビール(発泡酒でない)半ダースと女の子を紹介することを条件に、諏訪さんは快く引き受けてくれたのだそう。優しい先輩に恵まれてよかったね。

 でもあたしは、慶くんのレポートは期限内に終わらないような気がしていた。なんとなくだけれど。だって慶くん、さっきからノートパソコンの画面をずっと睨んでいるし、タイピングの音も遅すぎる。よく見たら右も左も、人差し指しか使っていない。


「そんなんじゃ終わんないよう」


 慶くんの着ている長袖のティーシャツの裾を引っぱって言うと、「終わらせるんだよっ」と、無愛想な口振りで突っぱねられてしまった。

 つまんないなあ。
 そう思いながら、あたしはまた、テレビ台の横の漫画本に手を伸ばす。ふつうはさ、彼女が部屋にいるときくらい、こういうエッチなのは隠すものじゃないかしら? と言いたくなったけれど、やめておく。そもそも慶くんには"ふつう"が通じないのだ。慶くん自体が、ちょっとふつうじゃないひとだから。



 あたしは、慶くんと付き合う前から、彼がボーダー隊員だということを知っている。でも、彼があのおおきな建物のなかで、毎日毎日、なにをしているのか、あたしにはよくわからない。三門市に住んでいるかぎり、ボーダーのひとたちには頭が上がらないけれど、だからといって慶くんがその組織の一員で、しかも、誰よりも近界民を倒していて、部隊の隊長まで務めているだなんて、どうしても考えられないのだ。
 キャンパスには慶くんのほかにもそういう学生が何人もいて、学食やホワイエで集まってはなにやらよくわからない話をしているのを見かける。ときどき慶くんもそこに混じっては、得意げな表情で笑ったり、この世の終わりみたいな悩ましげな表情をしたりして、まわりのひとたちに小突かれている。

 そんなとき、あたしはそのグループの、ほかとは違う、ただならぬ気配を微かに感じて、なんだかあのひとたちに慶くんを取られてしまったような気持ちになるのだった。付き合うときに、「あんまり遠出とかできないし、会ったりする時間もちゃんと作れないと思うけど、それでもいいか?」ときかれて、それなりの覚悟はしていたつもりで、そのおかげなのか、いまのところあたしたちのあいだにおおきな問題はないけれど、ときどき、あたしのなかの薄暗くもやもやした部分が、ほんの些細なことをきっかけにおもてに現れて、とたんに落ち着かなくなってしまう。

 あんなに楽しそうな顔、あたしには見せたことないなあ。

 そんなふうに思えば思うほど、なにかに負けたわけでもないのに、言いようのない悔しさがこみあげて、そういう日は決まって、慶くんの部屋へ行きたくなった。




「慶くん」


 一年じゅう出しっぱなしのこたつテーブル、いまはヒーターのコンセントを抜いてただのセンターテーブルになっているそれの前に胡座を組む慶くんは、ちっともあたしを見ないうえに、眉間に皺を寄せ、ちっとも楽しそうじゃない。

 ふたりきりのときぐらい、もっと笑ってくれたっていいじゃない。
 あたしは彼の膝を枕がわりにして、となりにごろんと寝転がる。ふつうは、こういうの、男女逆だと思うんだけど、それは、まあ、よしとして。あたしのからだは、自分でも気づかないうちに、慶くんの所持品である非現実的な体型の女の子たちばかり登場するこの漫画に、ちょっとずつ感化されていた。あたしはこんなに豊満なからだつきではないけれど、身も心ももうすっかり慶くんのもので、慶くんのかたちに馴染んで、まるでパズルのひとかけらのように、ぴったりと合うようになっている。


「やりたいなあ」


 いちど気づいてしまったら、あたしはもう慶くんが欲しくて欲しくてたまらなくなっていった。漫画本を床に放り、胡座をかいている慶くんの、脚の付け根のあたりに顔をうずめて、聞こえるか聞こえないかぐらいの、ちいさな声でつぶやく。慶くんの、キーボードを打つ音が一瞬だけ止まったような気がするけれど、あたしの目の前には慶くんのティーシャツの、ワッフルみたいな織り方をした生地がところどころ皺になって広がっているだけで、ほかにはなにも見えない。そのまま顔を押しつけて、ゆっくり深呼吸すると、肺の奥深くまで慶くんのにおいが浸透していく感じがする。

 やりたいなあ。

 顔といっしょに膝に添えていた片手を、慶くんの脚の付け根の、まんなかへと持って行く。ズボンの上からそこに触れ、そっと上下にさすると、わざとあたしと目線を合わせないようレポートにかじりつき、無視を決めこんでいた慶くんも、さすがにびっくりしたようで、あたしのほうへ顔を向けてくれた。


「こら」
「……」
「おーい、さん」
「……」
「なあ、まじでやめろって。勃っちゃうから」
「勃たせてるんだもん」


 やっとのことで合わせられた目線は、じりじりと熱っぽくて、逸らしたくても、慶くんのまあるく見開かれた目が、そうさせてくれない。あたしのからだは、まるで沸騰したみたいにどんどん温度を上げていく。泣きたいわけじゃないのに、厚い涙の膜が目を覆う。視界がぼやけて、蜃気楼のようにゆらゆら揺れる。


 先に目を逸らしたのは慶くんのほうだった。
 電源を入れたままのノートパソコンをぱたんと閉じて、短いため息を吐いたあと、脚のあいだを優しく撫でているあたしの手を、ぐいっと掴んで引き寄せた。掴んだ力があんまり男の子らしかったので、もしかしたら怒らせてしまったかもしれない、と、あたしはあわてて起きあがった。

 謝らなくちゃ。
 そう思って口を開くと、さっきよりも神妙な顔をした慶くんがあたしをじっとりと見詰めた。


「慶くん、怒ってる?」
「さっきの、なに」
「だって……」

 理由を告げるよりも早く慶くんの唇が触れて、それはほんのわずか触れあっただけなのに、あたしはうれしくって、つい、声を漏らしてしまう。そうして触れるだけの優しいキスはすこしずつ濃厚なそれになって、あたしたちはお互いの上着を一枚ずつ剥がして、ベッドに転がった。


「慶くん、あたしのこと好き?」
「どうした、急に」
「もしかしたら、慶くんはボーダーのひとたちと一緒にいるときのほうが、楽しいのかなあって」
「は? なんだそれ」

 肌の見えている部分のあちこちにキスの雨を降らせて、慶くんは笑った。それを見て、あたしも笑った。


「好きじゃなきゃ、こんなことしないだろ」


 慶くんのくすぐったい愛撫に身を捩り、あたしは横目で時計を確認して、それから簡単な引き算をした。このままふたりでセックスして、そのあとの、ゆったりと襲いかかる睡魔に屈しなければ、レポートの提出期限までは、まだ十二時間以上もある。あたしのなかに、根拠のない自信がふつふつと湧いてくる。

 ふたりで力を合わせれば、きっと大丈夫。
 ぜんぶ、うまくいく。


 あたしの急なわがままを受け入れてくれた慶くんに、ありったけの好きの気持ちと、すこしの後ろめたさを感じながら、彼を、めいっぱい抱きしめる。慶くんは、「のせいだからな」と言いつつも、途中でやめるという選択肢はないらしく、片手をあたしの背中に回して、慣れた手つきでブラジャーのホックを外し、捲れあがったスカートとショーツをいっぺんに取り去ってゆく。

 のここ、もう、とろとろだ。

 真昼のように明るい電灯の下で、彼のうれしそうな顔を仰ぎ見て、あたしは心の底からしあわせだって、そう感じる。楽しい夜は、まだまだこれから。







2019.09.30