My beloved murderess







 いつものように煙草を咥え、自動販売機の前で缶コーヒーを買うため硬貨を入れて立ち止まっていると、彼女が駆け寄ってきた。頭のうしろ、耳よりもすこし高い位置でひとつにくくられた髪が左右に揺れる。俺が先月、出張の土産にと贈った香水の柑橘類のような清々しい香りが、彼女とのあいだにふわりと漂う。


「唐沢さん、お疲れ様です」
「お疲れさん。君が資料運びとは、めずらしい」
「嵐山隊の広報活動のお手伝いです」

 彼女はトリオン体の換装を解かないまま、何冊かのファイルとその上に書類を重ねて両手に抱き、覗き込むような姿勢で挨拶をして、自動販売機のラインナップを上から順に眺め、再び俺を見てにっこりと笑った。


「持とうか、それ。重いだろ」
「大丈夫です、すぐそこまでですから。唐沢さん、ブラックですか? それとも炭酸?」
「ブラックだけど、、先に好きなの選べよ。奢るから」
「いいんですか?」
「どうせ最初からそのつもりだったんだろう」
「あっ、ばれてた」

 彼女は満面の笑みで「ありがとうございます」と礼をして、期間限定と表示された、果肉入りのグレープフルーツジュースのボタンを押そうと、書類を抱えたまま指をぴんと伸ばした。それに気づいて彼女のかわりにボタンを押し、勢いよく落ちてきた缶を拾ってやると、彼女は書類と胸とのあいだの僅かな空間に置いてほしいのだと、顎を使って俺に指示した。

「落とすなよ」
「買ってもらったのに、指図しちゃってすみません」


 彼女は依然としてにこやかな、屈託のない笑顔を見せながらちいさな我儘をいくつもならべ、俺はそのひとつひとつを丁寧に叶えていった。そうして去っていく彼女の華奢な体の線に目をやると、振り返った彼女がまた近寄ってきて遠慮がちに口を開いた。


「唐沢さん、明日、夜空いてますか」
「どうかな。たぶん空いてると思うけど、念のため確認しとくよ」

 そう言って俺がスマートフォンを取りだすと、彼女は目尻を下げ、「よかった」と笑う。

、任務は?」
「明日は非番なんです。ね、唐沢さん、久しぶりにご飯行きましょう」
「いい店でも見つけたのか」
「うん。居酒屋さんなんですけど、もつ鍋がおいしいの」
「もつ鍋か」
「わたし、もつ鍋、好きなんです」
「はじめて聞いたよ、君がもつ鍋を好きだなんて」
「だって、はじめて言いました」


 ふふふ。眉を下げ、恥ずかしそうに笑いながら会釈をして廊下を早足で歩き遠くなってゆく彼女のうしろ姿を見て、こういうやり取りはメールでもよかったのではないかと思ったが、夕方、アプリの通知を開こうと画面を操作していると、そこに彼女からの待ち合わせ場所と日時が記されたメールが、受信ボックスにきちんと届いていたのだった。




***





 その日は雨だった。豪雨と言うほどのものではないが、大粒の雨が傘を突き刺すように攻撃し、この時期にしてはひんやりとした空気が立ちこめていた。

 俺は指定された時刻より早く待ち合わせ場所に到着した。人通りの多いこの交差点は、仕事を終えてこれから帰宅する人と、これから仕事へ向かう人とがすれ違い、互いの目には他の人間など誰一人として映っていないようだった。前ばかり見て足早に通り過ぎていく人の群れ、さまざまな傘の色、降りつづく雨、水溜りの上を走る自動車、俺はそれらをぼうっと眺めながら、彼女を待った。


「克己さん」


 彼女は、昨日とは打って変わって、ゆったりとした歩き方で合流した。シンプルなデザインながら上質そうな素材のカットソーに、薄い生地のロングスカートを履いて、いつもひとつに結ばれている髪は下ろされ、湿気のせいか肩のところで外側に跳ねていた。俺は彼女の服装を見て、とても雨の日にする格好ではないと思ったけれども、片手に傘を差し、雨に濡れないようスカートの裾をもう一方の手で捲って握りしめ、そこから伸びた傷のない、華奢な白い脚が水溜りを避けふらふらと大股になって歩くのを、恍惚と見詰めていた。その姿は普段、戦闘員として銃を手に走り、家々の屋根を飛びまわっている人物とは到底思えないほどに落ち着いていた。



 店は小さな居酒屋の集まる路地の一角にあった。磨りガラスの引戸からは暖色の光が漏れ、にぎやかな笑い声が飛び交っている。奥の座敷は予約の団体らしき人たち、カウンターには常連客が三組、テーブル席も半分ほど埋まっていて、なんでもない平日だというのに、まるで週末のような光景だった。扉の隅に置かれた傘立てに傘を仕舞い、彼女が先に店内へ進んだ。店員の明るく、おおきな歓迎の挨拶が店内いっぱいに響きわたる。

ちゃん、いらっしゃい」
「こんばんは」
「そこのテーブル席でもいいかな? すぐお鍋持ってくよ」
「うん、ありがとう」


 テーブル席に座ると、すぐにアルバイトの女性の店員が飲み物の注文を取りにきた。彼女は生ビール、俺はウーロン茶を頼んだ。それもすぐにテーブルに並び、続けざまにもうひとりの女性の店員がガスコンロと鍋を持ってきた。取り皿や薬味を手際よく配置し、コンロに火をつけ、「いちばん上に乗せたニラがしんなりしたらできあがりです」と言って別のテーブルへ呼ばれて行ってしまった。呆気にとられてのほうを向くと、彼女は「炙りもつ鍋の塩味を予約しておきました」と笑顔で言った。


「ここ来るの何回目?」
「ひとりで来たのも合わせたら、今日で三回目です」
「へえ」
「どうかしたんですか」
「いや、三回目の割りには、店の人とやけに距離感が近いなと思ってさ」
「克己さん、嫉妬しちゃいました?」
「はは、まあな」

 俺が笑って、ワイシャツの胸ポケットから煙草とライターを取りだすと、彼女はすかさずテーブルの傍に重ねて置かれた灰皿に手を伸ばし、俺の目の前へ寄せた。


「おいしそう」


 ぐつぐつと煮える鍋をうっとりと見詰め、小鉢に盛られたお通しのポテトサラダをつつきながら、が言う。中に敷き詰められた具材は出汁を吸って小さく萎んでいて、店内の暖色系の色の照明に照らされ、黄金色に輝いている。

 穴のあいたレードルで具材を取り分けた彼女は、「足りなかったら自分でよそってくださいね」と言って、俺に皿を手渡した。黄金色のスープの表面には油の薄い膜がいくつも張っていて、彼女は皿の縁に唇を寄せてそれらを慎重に吸い上げ、「まだちょっと熱いかな」と言った。焦げ目のついたもつは箸で掴むとゼリー状の部分がちいさく震え、熱さがやわらぐまで舌の上で転がしていると、そこからまたじわりと油が滲み出てきた。



 彼女が鍋の熱を冷ましているあいだに、奥の座敷席の宴会がお開きになったらしかった。
 顔を赤らめた何人ものスーツ姿が、ぞろぞろと列を作り、おおきな声で話しながら、店員の挨拶を無視してひとりずつ店から出ていく。その列の最後尾の、年長者と思われる男性がの背後で足を止め、デザートのシャーベットが盛られた透明なガラスのボウル皿を、俺たちのテーブルの、彼女のビールジョッキのとなりに置いた。

「どうぞ」
「えっ」

 が驚いて振りかえると、その男性は、宴会のコース料理の最後に出てきたものだが食べきれなくなり、手をつけないまま残してしまうのはもったいないので、是非あなたに食べてほしいのだというようなことを彼女に伝え、部下と一緒に店を出て行った。


 は置かれたシャーベットと俺の顔とを順番に見てから、うれしそうに微笑んだ。

 彼女にはいつもそういうところがあるのだった。彼女自身が特別望んだわけではないのに、まわりの人たちがいろいろなものを彼女へと与え、彼女もそれを拒むことをしない。おそらく俺も、彼女の不可解な素質に魅せられたうちの一人なのだ。そうして関係が深まっていくと、しだいに俺は彼女の望むものとそうでないものの判断ができるようになり、彼女は自らの望みを俺だけに口にするようになった。

 ちいさなスプーンを握りしめ、はうっとりとした表情で、ゆるく溶けかかったシャーベットを口に運ぶ。俯いた顔に影が差し、より蠱惑的なそれになる。

「おいしい」
「よかったな」
「でも、ビールには合いませんね」

 その後、彼女の飲み物はビールから日本酒へ移り、俺は締めのちゃんぽん麺までしっかりと平らげた。はおなかがいっぱいだと苦しそうに笑って、麺を二口ほど啜ったところで箸を置いた。





 雨のにおいのするつめたい風が、食後の火照った頬を掠める。店を出て、傘を持ったまま差そうとしないを横目に、俺は自分の傘を勢いよく開いた。彼女がそれを見計らったかのように近づき、傘の下へと潜り込む。彼女の肩が俺の腕にぶつかって、そのまま蔓のように腕が絡んでゆく。

「相合い傘なんて、中学生ぶりかもしれないなあ」

 そう言いながら肩口に頬を擦りつける彼女のあたたかい体温を感じて、俺たちは黒く濡れたアスファルトの舗道をゆっくりと歩きだした。

 わたしの髪、もつ鍋と煙草のにおいがする。俺のシャツの襟元に鼻を寄せ、が言う。克己さんも、同じにおいがします。わたしと一緒ですね。そりゃ、そうだろう。同じ店にいて、同じもん食ったんだから。当たり前のことを言い返すと、彼女はまた猫のように頬を擦りつける。

「克己さんの腕、あったかくて、いい気持ち」
「そうか?」
「うん。かたくて、男らしくて好き」
「まあ、ラグビーやってたからな」
「ふふ、そうでしたね」

 ねえ、克己さん。このまま、ホテル行きましょう。

 絡んだ腕の力が強くなり、俺の側へ体重をかけた彼女が、さっきよりも随分と落ち着いた声で言う。
 ホテルへ行くことには賛成だが、鍋のにおいが染みついているから、着いたらまず風呂に入ったほうがいいかもなあ。俺がそんなふうなことをつぶやくと、彼女は「そんなの、あとからでもいいです。ふたりともくさいんですから。ふたりいっしょなら、心配ないですよ」と鼻にかけるような笑い方をして、俺のネクタイの先を摘まんだ。


「ホテルに着いたら、これでわたしに目隠しして、汚い女だって言って、ひどく乱暴にしてください」
「そういうのは俺の趣味じゃないんだけどな」
「克己さんの趣味かどうかは、関係ありません」
「じゃあ、君の趣味なのか?」

 付き合ってしばらく経つのに、このところ、君についてはじめて耳にする情報が多くて、俺はけっこう参ってるんだ。ため息混じりに伝えると、彼女は低いくぐもり声で、「ちがいます」と否定した。


「わたし、この前、人型の近界民を殺したんです」
「この前って……あの、遠征の時か」
「そうです。その近界民は、わたしたちみたいに、ちゃんと意思や感情があって……、血の通った、あったかい体をしていました。だから、この手が殺したってことを、忘れないようにしなきゃだめなんです」
「……それ、上には伝えたのか」
「伝えましたよ。明らかな正当防衛だったと、仕方のないことだったと言われました。やらなきゃ、わたしがやられてたって。わたし、はじめて人を殺しました。克己さん、知ってますか? 人を殺すときって、頭のなかに、映画みたいにいろんな場面が浮かんでくるんです。死ぬのは相手なのに、わたしも走馬灯みたいなものを見ている感じがするんです。家族とか、友達とか、いろんな人の笑った顔が出てきて、もちろん克己さんの顔も……、あっ、克己さんの顔は、笑った顔じゃなくて、ベッドのなかでちょっと眠そうな、わたしの話を聞きながら半目になってるときのうとうとした顔なんですけど、それはたぶんわたしが克己さんの顔のなかでそのときの顔がいちばん可愛くてすきだって思ってるからで、それで」

「それで、」
「もういい」


 俺は片手で彼女の肩を抱き寄せ、ぴったりと寄り添ってホテルまでの道を歩いた。

 夜のネオン街は酒や煙草や、食べ物の腐ったようなにおいや下水のにおいが混じり、そこを通る人々の声や、店の隙間から漏れる騒々しい音楽、それらをかき消すような雨の音がひっきりなしに耳へと入ってきて、しかし今はそんな雑音が俺や彼女をあたたかく包み込んでくれるのだった。俺たちは髪や衣服に鍋と煙草の煙を纏わせて、薄暗いホテルの一室に足を踏み入れた。


 結局、ふたりとも風呂に入るのは後回しにした。
 ベッドの上で、はもういちど俺に人殺しと罵ってほしい、乱暴にしてほしいと所望した。無邪気な彼女の我儘に、俺はいつも可能なかぎり応えてきたつもりで、これからもそうしていきたいと思うけれども、今回は目隠しのところだけを彼女の望みどおりに、それ以外は自分の意思を尊重して、俺はひどく優しく彼女に触れ、人殺しのかわりに好きだと言って抱いた。

「克己さん、人殺しの恋人でもいいの?」

 俺の胸に頬を貼りつけ、怯えたような声音で彼女が言うので、俺は「かまわないさ」と返事をして、煙草に火を点けた。窓のないこの部屋に、降りしきる雨の音だけが淡々と響いていた。







2019.10.01