回遊するシロクマ







 動物園に行きたいと言いだしたのはさんだった。
 僕はほんとうは人ごみなんて全然好きじゃないし、動物園みたいな埃っぽくてくさいところなんかなおさら好きじゃないけれど、だからといってほかに行きたいところなんてなにも思いつかなかった。だされた案に対してひととおりの意見は言わせてもらったけれど、僕は結局のところ、彼女が行きたいところなら、べつにどこだっていい。

 待ち合わせ場所に僕より15分も遅れてやってきたさんは、泊まりがけの旅行にでも出かけるみたいな、おおきな黒いリュックサックを背負って現れた。遅くなってごめんね。あまりの荷物の多さに何も言えなくなって、僕は彼女の遅刻を咎めるのをわすれた。


 動物園行きのバスに揺られながら、膝のうえに乗せたおおきなリュックサックを抱えているさんは、すでに楽しげな表情を浮かべている。目的地にもたどり着いていなければ、動物だってまだなにも見ていないのに。僕らが今日これまでにしたことといえば、学校へ行くふりをして、学校とは逆の方向のバスに乗り込んだというだけだ。
 それよりも、僕はさっきから彼女のかばんの中身ばかりが気になっている。

「それ、何が入ってるの」
「ええとね……」

 僕が黒い膨らみを指さすと、彼女はファスナーを開け、右手を暗闇のなかへつっこんで何やらごそごそと漁ったあと、父親から借りてきたという一眼レフのデジタルカメラや、毒々しい色合いのキャンディやマシュマロやチョコレートの入った袋を取りだし僕に見せた。

「こういうの、女子は小分けにして持ってくるんじゃないの、ふつう」
「そうなのかな」
「そうだよ」

 さんはキャンディのたくさん入ったおおきな袋をばりっと破いて、ひとつ、口にした。それから、菊地原くんも食べる? と言って、自分のとちがう色のキャンディを差しだした。いらない。僕は首をふった。

「ガムとか、お煎餅もあるよ」
「まだあるの?」

 相変わらず楽しそうな表情を浮かべながら、口へ放ったキャンディを片側の頬へ寄せてつぎからつぎへとお菓子を取りだすさんに、僕はちょっとうんざりした。そもそも僕は人ごみが好きじゃないし、公共の交通機関もあんまり好きじゃない。



***




 彼女の見たい動物といえば、それはシロクマだけだった。この動物園のシロクマは二頭いて、どちらも水浴びがお気に入りなのだという。
 おおきな体でゆったりと泳ぐ様子がとても人気なのだ。


「シロクマって、あんまり白くないのね」
「今さらそんなこと言うんだ」
「だって、バニラアイスみたい」

 僕たちは手すりに掴まって、何も言わず、眼下のシロクマを眺めた。外に出ているのは二頭のうちの一頭だけだった。

 空にはうっすらと雲がかかって、その隙間から差し込む陽の光はなんだかひどく弱々しい。平日の午前、園内はしんとしていて、動物たちの多くはくたびれた顔をして、檻の隅や、奥の小部屋へ入りこみ、ぐったりと眠りこんでいた。そのなかでシロクマだけは、広々としたプールのなかに悠然と体を沈め、落ち葉の影と戯れるみたいに、なめらかに水のなかを泳いでいた。まるで数字の8を横向きにしたように、ぐるぐる、ぐるぐる、飽きもせず泳いでいた。

「すごいよね、あのシロクマ」
「どうして?」
「毎日毎日、あんなこと繰り返してるんでしょ。僕にはとてもできないよ。気ちがいにでもなっちゃいそうで」
「でも、とっても楽しそうよ」

 さんは声をださずにほほえんだ。
 楽しそうだなんて、僕にはとてもそんなふうには見えなかった。むしろ、見ていてちょっとかわいそうなくらいだと思った。ほんとうはもっと自由に、大海原を泳ぎたいんじゃないか? こんなにも狭い世界で、来る日も来る日も同じことを繰りかえしながら、与えられた食べ物ばかり食べ、与えられた相手と繁殖して、不自由な幸福のもとで死んでいくのは、淋しいことなんじゃないか?
 黄ばんだ色のシロクマは、僕たちの視界の左右でおおきなカーブを描いたあと、たびたび息を吸うために、つるりと毛の寝た素朴な顔を、ちょこんと水面に突き出した。
 僕は手すりの脇に吊り下げられたシロクマの看板に目をやった。ホッキョクグマ、クマ科、クマ属。簡単な形態や生息地の説明の最後に、彼らのクリーム色の巨躯には到底見合わない南国の言葉が、はっきりと記されていた。

「ガパオとパッタイだって」
「なにが?」

 彼女が首を上げて僕に訊ねた。

「シロクマの名前」
「どっちも、タイ料理だね」
「飼育員のひとが、タイ料理が好きなんでしょ。きっとそんなもんだよ」

 僕は至極どうでもいいというような感じで、適当な言葉を連ねた。
 「きっとそうね」と、さんもあまり気にしていない様子で相槌を打ち、さっきまでと同じように、うつむいて、じっとシロクマを見つめた。

「いま泳いでるのは、どっちなのかな」
「知らないよ」
「ふたりは夫婦なのかしら」
「さあね。ちなみにふたりじゃなくて、二頭だから」

 さんはうつむいたまま、黙ってシロクマを見つめていた。
 ふいに、僕はなぜかさんの名前を呼んでみたくなった。彼女の名前は、どんなひとたちが、どんな思いでつけたのだろう?

さん」

 さんは驚いた顔をして、それからにっこりと優しく笑って、僕を見た。彼女のやわらかな髪が風になびいて、ほのかな桃色をした頬をくすぐるように撫でてゆく。学校を休んでしまったことのうしろめたさなんて、僕の心にはもうほとんど残っていなかった。

「なあに?」
「べつに。呼んでみただけ」
「そう」
「……」
「士郎くん」
「なに」
「呼んでみただけ」

 真似しないでよ、と僕が言うと、さんは目蓋を三日月みたいに細くして、ちょっといじわるな薄笑いを浮かべながら、僕のブレザーの腕のところを、きゅっと握った。

「ねえ、ここで写真撮ろうよ。シロクマも入れて、三匹で」
「ええっ、やだよ……」
「だめ、撮るの」

 そう言って、さんは上着のポケットからスマートフォンを取りだし、カメラを起動して頭上に掲げた。持ってきた一眼レフのデジタルカメラのことなんて、すっかり忘れてしまったんだろう。そんなものは、すでに彼女の背中にのしかかる、単なる重りでしかない。
 やれやれ。僕はため息をついた。

「こっち見て、士郎くん」

 手元がぶれて、おばけみたいにぼんやりとした輪郭の、ふたりの人間と、一頭の回遊するシロクマ。三匹、という表現がいかにもさんらしい。ターンするごとにひびく水しぶきの音を背に、なんだか僕は、無性にバニラアイスが食べたくなった。ちょうどよくあたためられた部屋のなかで、ちょうどよく溶けかかったバニラアイスを食べて、それから、甘い香りの彼女の頬に、そうっとキスして、触れてみたい。
 手すりの向こうのシロクマは、ぐるぐる、ぐるぐる、飽きもせず泳いでいた。







2020.01.01