夜と追想
※残酷な描写を含みます







 三門市内を流れる川の中央にある玉狛支部は、夜になると、川の流れる音がより鮮明になり、それは建物全体を包むように響き、鳴り止む気配はない。

 つめたく乾いた夜の空気を纏い、眠らぬ彼は、屋上に佇み、ひとりの少女を思いだす。
 かつて近界で会った、玄界の少女のこと。
 右耳と右手のない狙撃手。



***




 海岸線に近いこの町に、遊真はかれこれ一週間、足止めを食らっていた。父親の居なくなった彼にとっては、目の前の戦争に加勢する意味も、自身の存在意義も、すべてが無いも同然だった。ぼうっと浜へ目を遣れば、打ち寄せる波の裾が赤く滲んでいる。砂浜には大量の歩兵の死体とトリオン兵の残骸、装甲を撃ち抜かれ炎を上げる戦車の数々。
 波の音が、上空を駆け巡る戦闘機の音に重なる。


「あなた、そんなところに突っ立ってたら、いい的よ」

 それとも、死にたいの?
 叫ぶように彼に声を掛けたのは、ひとりの少女だった。右手に狙撃銃を握り締め、土色のマントを羽織り、裾が爆風に靡く。

「おれはこんな所じゃ、死なないよ」
「へえ。チビのくせに、強いのね」
「そんなに強くはないけど、おまえよりは強いかもね」
「あ、そう。そういえば、この辺じゃ見ない格好ね。あなた、敵なの? 味方なの?」

 少女が問い、銃を構える。瞬間、目の光が鋭くなる。敵だと答えれば即座に殺す。眼光がそう言っている。

 遊真は、銃口の向こうの彼女を、じっと睨んだ。

「どっちでもない」
「なあんだ、じゃあ、今からあたしに協力しなさいよ。報酬は後払いだけれど、いい?」

 あたしの銃に怯まない奴なんて、久しぶりだわ。
 構えた銃を下げ、にこやかに笑う彼女の顔には、まだ充分にあどけなさがある。

 あたしは、って言うのよ。
 突き出された左手には、誰のものともつかない、飛び散った血液が、変色したまま脇の方までこびり付いていた。

「おれは、遊真」
「よろしく、ユーマ。ところで、その黒い丸いのは何?」
「私はレプリカ。ユーマのお目付け役だ」

 はふたたび彼らから距離を取り、銃口をレプリカのほうへ向けたが、「……お目付け役って何なの?」との素朴な疑問から、銃口はすぐに空へ向いた。



 は遊真を自らの拠点だという石造りの低い塔の中へ招き入れた。要塞と化したこの塔には自国民から集めたトリオンが流し込まれ、外壁が強化されているため、余程の事態でない限り、崩壊することはないのだと言う。
 そうしてがひと通りの案内を終え換装を解いたとき、遊真は彼女の本来の姿を見て、ほんの僅か目を見開いた。

 右耳は原形が分からないほどに潰れて茶色に焼けただれ、右腕は肘から先がまるっきり消えてしまっていたのだ。


「驚いた?」

 は特段嫌がる様子もなく、自身の右の半身を遊真に曝した。

「この耳はね、まだ前線に出たばかりの頃、集団狙撃のために塹壕に隠れていたとき、敵の流れ弾に当たったの」

 だから右側はほとんど聞こえないのよね。
 は膝の上に抱えた銃身に油を差し、うっとりとした眼差しで、丁寧に、撫でるように薄汚れた布を滑らせ、磨く。時折ふうっと息を吹きかけては、慎重に分解していく。


「最悪なのがこの右手。これはあたしより幼い兵士にやられたのよ。きっとよく訓練されていたんだわ」
「そうか」
「ねえユーマ、あなたは自分の体の一部が宙を舞うところなんて、見たことある?」

 遊真は唐突に投げられた彼女の質問に、簡単には頷くことが出来なかった。なぜなら彼も自分の体を失った経験があるからだったが、出会ったばかりのにとっては彼の身の上など知る由もなく、彼女は流暢に語り続けた。


「ほんとうに、情けないったらありゃしないわ。あたし、撃たれた日は一晩中泣いたの。べつに、痛いからって訳じゃないわよ。悔しくって悔しくって、涙が止まらなかった。国の仲間は、トリオン体に換装すればそんな傷は関係なくなるから心配するなって言って慰めてくれたけれど、その言葉が余計に自分の無力さを突きつけてくるの。だからあたし、次の日から右手を奪った奴を血眼になって見つけだして、蜂の巣にして殺してやったわ。そうしたら、そいつってば、死ぬ直前になって急に涙を流して叫び始めたのよ。結局、死ぬまであたしの足に縋りついて何か言っていたけど、なんて言っていたのか、もう忘れちゃった。神様へ祈りの言葉でも唱えてたのかしら」



***




 塔の外側一帯を、石油のにおいが覆う。海辺の森が赤く燃え上がっている。帯のように広がるそれは、いっこうに消えそうにない。


「いい朝ね」

 が左腕を空に向かって伸ばす。

「このにおい、この景色。最高の朝だわ」

「何?」
「つまんないウソつくな」

 遊真がをじっとりと睨むと、彼女はいたって強気な態度で鼻を鳴らし、顔を逸らした。そうして銃を握り締め、トリオンの粒子とともにするりと生えた右手へすぐさまそれを持ち替え、ガスマスクを装着する。

「見て」

 が上空を指差す。飛行型のトリオン兵が二体、ゆったりとした動作で腹部を開く。そこから夥しい量の焼夷弾が投下され、たちまち海岸沿いの鮮やかな緑の樹々が燃えていく。遊真は彼女から手渡されたガスマスクを抱え、灰色の空を見上げた。

「あれはね、水で消えない火なの」
んとこは、そんな爆弾、持ってるのか」
「元は、玄界の兵器らしいわ」
「玄界の……」
「さて、今日は何人殺せるかしら」

 マントを靡かせ、ガスの充満する戦火の中へ降りていく彼女の背を、遊真は何も言わずに追いかけた。



***




「あたしは、玄界の生まれなの」

 いまだ消されぬ炎が辺りを明るく照らす中、がその向こうにぼんやりと見える地平線を眺め、呟いた。遊真は彼女の左側に立ち、横顔を見詰める。短い黒髪、焼けた褐色の肌、小さな低い鼻。順に視線を下ろし、「そうか」とだけ言って、頷く。

「やけに薄い反応ね」
「なんとなく分かってたからな」
「そうは言っても、物心つく頃には、もうこの施設の中だったんだけれど」
「じゃあ、親のことも知らないのか」
「まあ、そうね。知らないわ。なあんにも知らない。きっとあたしが今どこで何をしているのか、向こうも、なんにも知らないでしょうね」

 知ったところで、見知らぬ国の、見知らぬ軍の狙撃手として、毎日何十人、何百人もの敵を殺していると聞いたら、そんな化け物、わたしたちの娘じゃない、なんて、言い出したりして。そりゃ、そうよね。もう、あたしの右手は、この引き金を引くためだけにあるのだもの。


 は視線を遠くに投げたまま、口の端を上げる。

「ユーマは、ここに来る前は何をしてたの?」
「親父と、旅をしてた」
「旅だなんて、素敵ね! お父様は、今どこにいらっしゃるの?」
「おれを庇って、黒トリガーになったんだ」
「だからユーマは、ほかの奴らと違うのね」
「何が違う?」
「分からない」

 でも、何かが違うってことだけは、確かに分かる。

 言いながら、は欠伸を噛み殺した。
 レプリカが気づき、彼女に床に就くよう促す。

「ユーマは寝ないの?」
「おれは眠らなくていいんだ」
「いいわね。あたしもそうなりたい」
「そうか? ひとりの夜は、けっこう寂しいもんだぞ。それにすごく暇だ」
「あたしは眠りたくても、眠れないのよ。こうして目を閉じているあいだに、仲間が殺されて、国が滅ぼされてしまうんじゃないかって考えると、眠ってなんかいられない。だったら、いっそのこと、眠らない体になりたいものだわ」

 それでも、敵地で突然倒れる訳にはいかないから、限られた時間で熟睡できるように薬を服用することもあると、は言い、またそれらを過剰に摂取し自ら命を断つ者も、何人も見てきたのだと付け加えた。


「ユーマは、ひとりになっても旅を続けるつもり?」
「おれはひとりじゃないぞ。レプリカが居るからな」
「あら、そうね。ごめんなさい」

 は肩を竦め、夜と同化したレプリカの丸く無機質な額の部分に、優しく触れた。

「玄界に行こうと思ってる」
「玄界?」
「ああ。親父の、故郷だから」
「そう……」

 遊真が、人差し指の指環を夜空に掲げる。
 厚い雲に遮られ、星はひとつも顔を出してはこない。

「それじゃあ、もし玄界と戦争することになったら、あたしとユーマは敵どうしね」
「そういうことになる」
「どちらが勝つかしら」
「おれだろうな」
「どうして?」
「どうしても。には、絶対に負けない」
「この、生意気!」

 ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜられ、遊真が乾いた笑い声を上げる。ひとしきり笑った後には俯いて、眼下に積み上げられた死体の山をまじまじと見詰めた。下を向いた睫毛、炎に照らされ暗がりの中に輝く黄色い頬、血色の悪い、荒れた唇。遊真ははじめて彼女のほんとうの姿を見たような気がした。


「もしそうなったら、そのときは、ユーマがあたしを殺してね」

 苦しまないように、ひと思いに。
 そう言って、は穏やかに笑った。



 翌朝、塔の上階に足を運ぶと、すでに彼女の姿はなかった。上空から投下される無数の焼夷弾と耳を裂くような爆発音、立ち込める黒い煙、飛び散る泥と血、地面に大きく掘られた穴と、そこから溢れて増え続ける死体。彼女があの爆撃の中心にいることは、容易に理解された。

 遊真は目蓋を細め、彼女が居るであろう方角を見据え、おおきく息を吐いた。



***




 星々が瞬く夜更け、眠らぬ彼は、ひとりの少女を思いだす。
 は今日も、あの業火の戦場にいるのだろう。失った右耳や右手や、目には見えない何かを取り返すために。それは、もう二度と彼女のもとへ返って来ないようなものかもしれないけれど……。


、生きてるか?」

 遊真は確信する。きっと、彼女は生きて、待っている。始まりも終わりもない殺戮をひたすらに繰りかえして、身も心も兵器と成り果ててしまった自分自身を、優しく殺してくれるのを。
 そして彼は願う。
 さいごにを抱きしめ、その首を切り落とすのが、おれだったらいい。







'ひきがねをひけば小さな花束が飛びだすような明日をください'
2020.02.08