髪についてⅠ・えりあし







 学校の帰りに美容室に寄り、長かった髪をばっさり切って、毛先をまっすぐ整えてもらった。美容師さんが、かわいいねって褒めてくれたから、きっとわたしはショートヘアが似合うのだと思う。
 ショーウィンドウに映る、朝とはちがう自分の姿に、すこしだけ足取りが軽くなる。首もとを通り抜ける二月の風はまだつめたさを孕んで、でもかすかに春のにおいを纏っている。
 仕上げに切り揃えてもらったえりあしの部分を下から上に撫でてみれば、短くなった髪の毛の一本一本が指先にちくちくとあたって、くすぐったい。その感覚がなんだかおもしろくって、交差点の信号で立ち止まっては、つい何度もさわってしまう。さわりながら、ふと、辻くんが頭に浮かぶ。そういえば彼のえりあしも、こんなふうに短く切り揃えられていた。髪は黒々していて、ほとんど癖がなくて、さわったことはないけれど、たぶん、さらさらしている。



***




 辻くんとは、中学三年のときに、ほんのいっとき、付き合った。進級してから初めての席替えで偶然となりどうしになって、ほかのクラスメイトたちがにぎやかな会話を楽しんでいるなかでわたしたちにこれといった会話はなく、ただおたがいに会釈をしただけだった。わたしはそんな空気がどうしても耐えられなくて、それ以降は用があってもなくても、彼に話しかけるようになった。
 最初は目も合わせてくれなかった辻くんだけれど、執拗に話しかけているうちにだんだんと顔をこちらへ向けるようになり、しだいに目を見るようになり、話の最中に(ほんの一瞬だけれど)笑ってくれるようになり、ついには彼のほうからわたしに話しかけてくれるようになった。
 ほかにも、落とした消しゴムをひろってもらったり、数学の教科書を見せてもらったり、英単語のテスト範囲を教えてもらったりして、それを口実に彼の好きな食べ物や趣味、二年生の頃からボーダーに入っていることなんかも聞き出すことができた。恐竜が好きなのだということも、このときに知った。
 ふだんから女の子とほとんど話をしない辻くんがわたしに心を開いてくれたことがうれしくて、いつのまにかわたしは辻くんのことがすきになっていた。


 もちろん、告白はわたしからした。あれからもういちど席がえがあって、わたしたちは離ればなれになってしまい、辻くんはボーダーでの活動時間が増え、会話することも少なくなってしまった。わたしには辻くんが遠いひとになってしまったように感じられた。

 月に一度の大掃除の日、わたしたちは廊下の途中にある手洗い場で、久しぶりに言葉を交わした。辻くんは雑巾を洗っていて、わたしは石鹸を泡立て、手を洗っていた。

「席、遠くなっちゃったね」
「…そうだね」
「辻くんともっと話したかったなあ」
「俺も、話したかった」
「ほんと?」
さん、話しやすかったし……」
「そう言ってくれてよかった。辻くんと話すの、楽しかったから」
「俺も、けっこう楽しかった」
「辻くん、あのね……」
「……」
「付き合わない? わたしたち」

 絞った雑巾を縁に置いた辻くんが、沸騰しそうなほど赤い顔をして、恐る恐る、わたしの方を見た。

「辻くんがすきなの」

 手のひらの汚れなんてとっくに落ちていたけれど、わたしは両手を揉みながら泡だらけにして俯いて、それからは何も言えなくなってしまった。辻くんは真っ赤な顔で「あの、その」と吃ったあと、消え入るような声で、「俺なんかでよければ……」と言った。蛇口の水は、止まることなく流れつづけていた。


 辻くんは、ボーダーでめきめきと力をつけているようだった。休み時間や放課後など、彼に声をかけるボーダー所属の生徒たちは日に日に増えてゆき、わたしたちは満足にデートすることさえかなわなかった。せっかく彼のいちばん近いひとになれたと思ったのに、わたしはなんだか寂しい気持ちになった。

「辻くん、今日は放課後、予定ある?」
「特にないよ」
「それなら、いっしょに帰ろうよ」

 辻くんといっしょに何かをしたいとき、いつも誘うのはわたしの方だった。ほかの友だちは、彼氏といっしょに下校したり、そのままどちらかの家でいっしょに宿題をしたり、遊んだりするのに、わたしたちにはまだ、そういったことはない。それどころか、手をつないだこともなければ、キスだってしたこともないし、いまだにわたしたちはおたがいを苗字で呼びあっている。
 そんなもどかしさに、わたしはちょっと焦っていた。


 その日は朝から雨が降ったり止んだりして、わたしたちが帰るときには雨が降っていた。わたしも辻くんも、自分の持ってきた傘をさして歩いた。傘のなかでは雨粒のぶつかる音や、濡れたアスファルトを駆け抜ける車の音が騒々しく響いて、そのせいか声が聞きとりにくく、しだいに口数も減った。

 わたしの家のまえに着く頃にはもう何も話さなくなっていて、辻くんは門のところの表札を横目で確認したあと、傘を僅かに傾けた。

さんの家、ここだよね」
「うん」
「門、閉まってるみたい」
「うち共働きだから」
「鍵ある?」
「うん、鞄のポケットに……」
「傘持つよ」

 奥に隠れてしまった鍵を出そうと鞄を漁ると、辻くんの手がわたしの傘の柄を握った。伸びた腕に雨粒が垂れ、制服に染みが広がってゆく。

「あ、あった」
「よかった」
「傘ありがとう。持たせてごめんね」
「いいよ、気にしないで。それじゃあ、俺はこれで」
「ちょっと待って」

 辻くんの濡れた制服の腕を引っ張り、わたしは口を噤んだ。恋人どうしなら、言葉にせずとも分かり合えると思っていたわたしの少女漫画みたいな思考は、辻くんの前ではなにひとつ通じることはないのだった。

さん?」
「えっと……、キス、してほしいな」
「えっ……」
「バイバイのキス」

 傘に隠れてよく見えないけれど、辻くんが困った顔をしているのが、なんとなくわかる。彼の制服を握るわたしの手の甲に、雨粒が滑り落ちた。

さん、目閉じてて」

 辻くんの深い青色の傘が、開かれたまま傾けられる。高く横向きになった傘はもう彼を雨から守ることをしないで、わたしの傘の少し上に、端のほうだけが重なる。そうしてわたしが握っていた手を引くと、こんどは彼の震える手が肩口を優しく掴む。わたしのピンク色の傘のなかに、彼がそっと入り込んで来る。首を曲げ、ななめになった顔が近づいて、あらためて、この距離で見てもきれいな顔だなあ、なんて思う。彼の前髪がかすかに濡れて湿っていることや、細く切れた目じり、小刻みに震える手のあたたかさをたしかめながら、そこでようやく目をつぶると、唇にやわらかい感触があって、それが辻くんの唇だと実感したとたん、すぐに離れてしまった。

「……じゃあ、また学校で」

 辻くんは一度もわたしの方を振り返らずに、雨のなかに消えていった。わたしは自分の唇、さっきまで辻くんの唇が触れていたそこを、指先で何度も何度もなぞった。



 自然消滅は、そう突然に訪れるものじゃない。

 あれから辻くんはボーダーでの活動が前よりずっと忙しくなり、学校も休むことが多くなった。また受験期に突入したこともあり、わたしたちの関係は少しずつ疎遠になっていった。同じ教室に居るのに、挨拶さえしない日もあった。思い返せば、わかりやすい予兆はいくらでもあったのだ。
 辻くんは成績が良かったから、六頴館高校に進むだろうということは、本人に聞かなくともわかることだった。受験以外に共通した話題を持たなくなってしまったわたしたちに、もう話すことなんてなかった。

 わたしは卒業してすぐに、父親の転勤に伴って別の街に引越した。よくよく話を聞いてみれば、こんなにも恐怖と危険に満ちた街にはとても住んでいられないと、前々から会社へ異動願いを出していたらしく、転勤が決まったときは父も母も大喜びだった。両親は昔からボーダーに対してあまり良い感情を抱いてはいなかった。わたしは何人かの仲のいい友だちのことと、辻くんのことを考えた。



***




 三門市から遠く離れた街の交差点で、わたしは自分のえりあしに触れる。下から上に撫でるとちくちくして、くすぐったくて、上から下に撫でると、なめらかでひんやりして、頭の丸みに沿って髪の毛がぴたりと貼りついているみたい。

 引越してから、辻くんに連絡したことはない。ときどき、ニュース番組や新聞の記事にボーダーの単語を見つけると、元気にしてるかしらと気にはなるけれど、連絡したところでおたがいの体調や天気の話ぐらいしか共有できることが思いつかないし、わたしなんかがいきなり連絡したら、きっと忙しい彼に迷惑をかけるだけだ。それ以前にふたりとも緊張して、まともに話すことすらできないかもしれない。
 でも、もし、わたしたちがまだ恋人どうしだったとして、辻くんがいまのわたしの髪型を見たら、彼は何と言うだろう? 彼の細く骨張った手がわたしの髪の横のところを掬って、耳をかすめ、えりあしを上から下へ、ゆっくり撫でるところを想像して、胸がきゅうっと熱くなる。

「辻くん」

 辻くん。わたし、ほんとうはあのとき、もう少しだけながくキスがしたかった。それで、できることなら一回ぐらい、セックスしてみたかったな。
 ぜんぶぜんぶ、いまだから言えることだけれど。

「ずっとすきでした」

 髪を切り、わたしは生まれ変わったような気分で家路をたどる。孟春の風が、首もとを撫でるように通り過ぎてゆく。







2020.03.11