髪についてⅡ・まえがみ







 個人戦を終え、かたいマットレスの上に転送されたは、無機質な個室の、無機質な天井をぼんやりと眺めた。遅いまばたきを何度か繰りかえし、ゆっくりと体を起こして、ううんと大きく伸びをした。そして充分に肩や腕のあたりを伸ばしてから、今度は立ち上がって膝の裏側や体の側面を伸ばすようにストレッチした。

 は今日、短時間でさまざまな隊員と個人戦を行なった。先週のランク戦に負けたあと、東のもとへ行き、多くの選択肢からより少ない攻撃数で、より早く相手のトリオン器官を破壊する戦術を学び、それらを試す機会をうかがっていたのだ。金曜日の夕方は、翌日の授業がないことなどから多くの隊員が入室していて、彼女にとっては絶好のチャンスだった。


 頭の中がふわふわとした雲のような浮遊感に満ち、ほどよい疲労感に包まれながら対戦室を出ると、なんだかラウンジがいつもよりにぎやかなのに気がついた。そこにいる隊員たちのほとんど全員が、奥の通路のほうを見てなにか話をしている様子だった。そしてざわめきのなかから彼の名前が聞こえ、とたんには目を見開き、瞳を輝かせた。

「迅さん?」

 いそいで階段を駆け下り、背伸びをして通路のほうを確認すると、迅の姿が見えた。久しぶりに本部に現れた彼は、緑川からの唐突な個人戦の誘いを笑顔で断っているところだった。はうきうきと軽い足取りで彼らのもとに駆け寄っていった。

「迅さん、お疲れさまです!」

 よそ行きのような、でもそれでいて作りすぎない、が思う精一杯の可愛らしい声音で話しかけると、迅は少しおどろいたような表情をして、それから笑顔で挨拶した。

「おっ、、やっぱり髪切ったんだな」
「知ってたんですか?」
「ちょっと前に視えたんだ」
「えっ、うそっ」

 視られたことへのおどろきと、彼が自分の未来を視てくれたことへのうれしさとで、なにかとくべつな感情を向けられたような気持ちになり、はついうっかり口元がほころんでしまうのを隠すため、とっさに両手で口元をおさえた。

 口元をおさえたところで、赤らんだ頬や耳を見れば、が照れていることは誰が見ても明らかだった。が必死にうれしさを堪え、平常心を取りもどそうとしていると、迅がとの距離を詰め、背をかがめた。互いの視線がぴたりと合い、の顔は沸騰しそうなほど熱く、目には泣き出しそうなほどに涙を溜め、心音は加速し、呼吸もままならなくなった。

「さすがに細かいところまでは分かんなかったけど」

 そう言って、彼の手がの切り揃えられた前髪の上のあたりを、そうっと二度、撫でた。

「うん、やっぱりいい感じ」

 はいまにも消えてなくなってしまいそうな細く弱々しい声で、震えながら感謝の言葉を発することしかできなかった。


 彼女はこれほど髪を切ったことを喜ばしく思ったことはなかった。前髪も、担当の美容師と相談して、丁寧に仕上げてもらい、自身もとても気に入っていた。彼女は口元をおさえていた手を離し、先程迅がしたように、自分でも撫でるように前髪に触れた。彼の手のひらのあたたかさがまだ残っているような感じがした。

「それじゃあ、可愛いちゃんには実力派エリートがジュースを奢ってあげよう」
「あっ、ありがとうございます!」
「えー、ばっかりずるい! 俺もー! ていうか迅さん、次いつ個人戦してくれんの!」

 自販機にと緑川の分の小銭を入れた迅は、好きな缶ジュースのボタンを押すよう促し、は炭酸飲料を、緑川はスポーツ飲料のボタンをそれぞれ押した。取り出し口へ勢いよく吐き出された缶は、多く個人戦をこなし、また迅との会話で火照ったにはいつもより冷たく感じられ、炭酸の泡がピリピリと口内を爽快に刺激した。

「迅さん、いつかわたしとも戦ってほしいです」
「お誘いはうれしいけど、俺はいろいろやることがあるんだよなー」
「時間あるときで大丈夫なので……、」


 迅は、と、彼女のとなりで激しく同調する緑川の顔を順に見たあと、右手を顎にあててしばらく考えるような仕草を見せ、やや間をおいてから、ひらめいたように言った。

「ふたりとも個人ランク5位以内に入ることができたら、俺とやろうか」
「本当に? 絶対約束だよ!」

 歯を見せて笑う迅に、確約を迫る緑川、はなにか言いたげに迅を見つめ、まごついた。ご機嫌な緑川が草壁隊の隊員たちに連れられ、小さく跳ねるように去っていった直後、迅は先の提案に不満があるのかと思い、彼女にたずねた。

、どうした?」
「迅さん、あの、もしそれで、わたしが勝ったら……、」

 まだ個人戦への挑戦権が得られたわけでもないのに、自分が勝った場合の話──非常に低確率な未来──をし出したに、迅は興味深く耳を傾けた。

が勝ったら?」
「その、ふたりで──、」


 その後の彼女の要求は、彼のサイドエフェクトによって先読みされることとなった。
 おそらく初恋なのであろうの、自らの願望を直接的に伝える気恥ずかしさ、震える唇のみずみずしさ、そこからたどたどしく紡がれるひとつひとつの言葉からうかがえる純粋さと、その後ろに隠れる若葉のように初々しく芽生えはじめた女性としての元来の欲求の不純さが入りまじり、彼女自身の内側で起こるいくつもの感情のうごめきを認め、よりいくつか年上の迅はほほ笑みながら飄々と彼女の要求をのみ、それから彼女のやわらかな尻の膨らみを下から上へ、軽やかに撫でた。







2024.10.14