不器用な男







 早朝のバスは、夜よりもよく揺れる。運転手は先刻から両替時の留意点やICカードへのチャージ方法などを、まるで台本でも読むかのように繰り返し車内に放送している。とは言っても、この街の賑わいは昼も夜もさほど変わらない。乗降口からは何人もの人が吸い込まれては吐き出されていく。杖をついた老人や、真新しいスーツを纏った人、身を縮めてスマートフォンを弄る女子高生、背負ったランドセルばかりが大きく目立つ小学生たち。ガラスの飛散と紫外線を遮断するための薄暗いフィルムが貼られた窓からは、さまざまな色の看板が店の名前を浮かび上がらせている。それらを横目にしながら、イヤフォンを耳の窪みに引っ掛け、音楽を再生して目を瞑る。目蓋の裏の暗闇から、ゆっくりと睡魔が垂れ込めてくる。



***




 昨夜、諏訪くんと寝た。
 昨日は夕刻から大学の面子で飲んでいて、いつからか気付けば彼はわたしの隣に座っていた。最初は大衆居酒屋のような安いチェーン店に行った。たいていの人間は、大勢なら何だって出来るような錯覚に陥るものだ。わたしは学会への論文提出を終え、少し疲れていた。久しぶりの酒に初めは体が驚いていたけれど、次第に量は増えていき、くだらない話に大声で笑った。諏訪くんは白く凍った生ビールのジョッキと煙草とを交互に口へ運んでいた。彼とは同じ学科でこそないけれども、学部に共通の友人が多いことや、これまで何度か飲み会の席が近かったこともあり、ある程度の面識はあった。大学の近くのアパートで一人暮らしをしていて、隣の住人が生活感のない不思議な人であること、ボーダーに所属しており、防衛任務のために授業は遅刻や欠席を繰り返していて単位が危ういことなど、交わした会話はほとんど当たり障りのない内容だった。彼はいつも片手に煙草を持っていた。

 しばらくして幹事の提案で二軒目に移動することになり、多数決でカラオケボックスへ行くことに決まった。わたしは歌うのは苦手だったけれど、久しぶりの酒がまだまだ飲み足りなかったので、グループの後方をふらふらと付いて行った。


「おえっ」

 店を出て路地裏を歩いていると、いちばん後ろを歩いていた諏訪くんが、気分が悪いと言い出した。

「大丈夫?」

 ほかの皆はすっかり酔っ払っていて、諏訪くんひとりの異変に足を止めることもなく、蹌踉めきながらも鼻歌交じりに先を歩いている。わたしも遅れをとらないよう彼の方を振り返りながら前を向いた。すると、突然手首を掴まれた。

「ホテル行かない?」

 彼の口から出たのはその一言だった。
 わたしは呆気にとられて、一瞬、何がなんだかよく解らなかった。それでも、直前の彼の嗚咽やふらついた足取りがほとんど演技だったということだけは薄らと理解出来た。

「え?」
「な、行こ」

 彼は掴んだままのわたしの手を自分の懐へ寄せ、強引にキスをした。アルコールのにおいが鼻を突いてくらくらする。離れようにも離れられず、掴まれた腕は徐々に痛みを伴っていく。わたしは今ほど男の人との体力の差を恨んだことはなかった。あまりに唐突なその行為に固く目を閉ざしていると、今度は顎を持たれて舌を入れられた。

のこと、好きなんだ」

 夏の夜の空気が、なまぬるく肌を掠めていく。酒の所為か、わたしはまだこの状況を少しも把握出来ていないのに、彼の舌の感触がひどく官能的で、体が火照り始めるのにあまり時間は掛からなかった。不器用な告白が愛らしくも感じられた。もしかしたら長い夢を見ているのかもしれない。力なく抵抗を続けていると、通りの向こうにたくさんのネオンサインが見えた。きっと、このままわたしたちは不気味なほどに輝くそれらの店々のひとつへ吸い寄せられていく。彼に流され意思の弱くなってしまったわたしは、目先のこの快楽にずるずると引き込まれてしまうのだった。



 安っぽいホテルの部屋に入るとすぐに互いの服を脱がせた。酒が全身に回ってしまったようで、思考は完全に追いつかなくなった。エレベーターの中で散々キスをしたのに、諏訪くんはわたしの唇や首や胸にも幾度となく唇を落とした。彼の手は骨張っていて、それなのにわたしの体を撫ぜる力はあまりに弱くて何か割れ物を扱うようだった。
 彼の舌が生き物みたいにわたしの腿を伝う。柔らかな刺激が心地よい。時折肌を強く吸われて、鈍い痛みが走った。


「もう平気なの?」
「何が?」
「さっき、気分が悪かったんでしょう」
「あれ、まだ気にしてたの」

 敢えて知らない振りをして訊ねると、案の定、諏訪くんは恥ずかしそうに笑いながらあれは演技だったと言った。その言葉とともに発せられた吐息が腿の内側に掛かって、くすぐったさに声が漏れた。

「ああいう強引なの、どう?」

 そう言って彼はゆっくりと腰を沈め、少しずつ体を揺らし始めた。嫌いじゃないと途切れ途切れに伝えると、思った通りだと言わんばかりの意地悪い笑顔をして見せた。押し寄せる快感とともに、わたしは彼に少年のようなあどけなさを見出した。



 先にシャワーを浴びたわたしは、諏訪くんが戻ってくるまでのあいだ、冷蔵庫に入っていた無料のミネラルウォーターを飲みながら、適当に選んだ映画を見て過ごした。壁を越えて聞こえてくるシャワーの音に先刻までの熱が再び感化されて、彼の舌のざらざらとした感触ばかり反芻していた。

「なに見てんの」

 石鹸の香りを纏った諏訪くんが隣に座ると、ベッドのマットレスが軽く弾んだ。グレーのボクサーパンツを履いて、薄っぺらいタオルでがしがしと頭を拭く。小さな水滴が、何粒か顔に飛んでくる。わたしが「アメリカン・スナイパーだよ」と答えると、一度だけ画面を見遣り、眉根を寄せ、すぐさまリモコンの停止ボタンを押した。

「そんな重てえの、ここで見なくってもいいだろ」
「諏訪くんはさ、ボーダーで、こんなふうに近界民を撃ったりするの」
「俺はもっと近くから撃つかな」
「そう」

 テレビの電源を切って、タオルを頭に被せたままばつの悪そうな表情をしている彼の頬に、触れるだけのキスをした。不意打ちのそれに驚いた様子で、顔を上げ見詰め合う。もう一度、次は唇に同じようにする。頭の上にあったタオルは、シーツの波間に落ちていった。

「なんか、ごめんな」
「どうして?」
「急に、連れ出したりして」
「ちょっとびっくりしたけど、別に気にしなくていいよ」
「……」
「…諏訪くん、演技下手だね」
「うるせー」
「……」
「…俺、ほんとに好きなんだよ、のこと」
「うん」

 知ってる。もう、充分だよ。
 短い時間に二度も好きだと言われて、まだデートすらしたことがないのにセックスをして、既にいろいろな順番を飛び越えているような気もしたけれど、そもそも恋愛に予め決められた順番なんてものはないのだ。わたしたちはこうやって恋人同士になる。それもまた諏訪くんらしくて、不器用でいい。


「わたし、諏訪くんのこともっと知りたい」
「その前にのこと、教えてくれよ」

 ベッドの上に、ふたり、折り重なるように倒れ込み、二度目のセックスをした。四つ這いになり、後ろから入れられるのが好きだと伝えると、彼は覆い被さるようにすんなりと中へ侵入した。呼吸を荒げて、彼の熱を体の奥で感じながら、つい先刻見た映画の冒頭のシーンをぼんやりと思い浮かべた。わたしの知らないところで、諏訪くんもあの映画の主人公のように、たくさんの近界民を殺しているのだろうか。わたしの肌を優しく滑っていくこの手のひらが、英雄とも悪魔とも呼ばれる日は来るのだろうか。もしそうなったら、わたしはどんな顔をして彼を迎えればいい?
 二度目は、わたしも彼も長くは持たなかった。



 翌朝、連絡先を交換したわたしたちは近くのバス停まで手を繋いで歩いた。諏訪くんは歩いてボーダーの本部へ行くと言ったのに、バスが来るまで煙草を咥えて一緒に待っていてくれた。
 やがて定刻になり、バスが砂埃を舞い上げて近づいて来た。繋がれた手を解いて後ろの扉へ乗り込もうとしたとき、二日酔いなのか照れ隠しなのか、手のひらで口元を覆った彼が「今度は昼間に会いませんか」とかしこまった口調で言うものだから、おかしくなって笑った。







'若気の至り'
2012.08.16: 原案
2019.04.23