形而上的な彼女
屋上には、彼女の姿があった。腰高の壁の上に座り、足を投げ出して、川の流れや、雲や、星々の光をしずかに眺めている。足音を立てずにそうっと近づくつもりだったけれど、小さな砂利を踏んでしまい、あっさりと気づかれてしまった。
「迅、来てたのね」
「…
さん、寒くないの」
「へーき」
となりに並び、彼女の座っているコンクリートの上に肘をつき、上体を預ける。左を向けば、
さんがほほ笑みながら俺を見おろしていた。
「ぼんち揚、食います?」
「ううん、いらない」
目が合って、俺は彼女にほほ笑み返して、空を見あげた。
***
さんには、俺のサイドエフェクトが通用しなかった。
出会った頃からそうだった。
彼女の未来が、見えないのだ。
俺は彼女に好意を寄せた。いま思えば、それはたぶん好意ではなく、興味だろう。見えないものを見たいという興味、或いはそういう原始的な欲求。
いつだったか、真冬の、ひどく寒い日にそれを伝えたら、
さんはかなしげな表情でうつむいて、白い息を吐いた。それからすぐに顔を上げ、「いいね、それ。わたしだけミステリアスな女ってかんじ」と笑った。その乾いた笑いは、なにか確信したようにも、開き直ったようにも見えて、
さんにこんな顔をさせてしまうくらいなら、はじめから言わなければよかったと俺は思った。
ふたりで食事に出かけたこともある。
さん以外の人たちと食事をするときは、たいていの未来が見えているから、落としてしまわないようにあらかじめグラスをテーブルの中心に寄せておくこともあるし、注文を間違えられないように「このメニューにしなよ」とすすめることもあるけれど、
さんとの場合には、そういった予測は不能だった。なにしろ未来が見えないのだ。
清潔感のある白いテーブルクロスの敷かれた円卓に向かい合い、
さんは、俺の側にあるルッコラのサラダを取り分けようとして、シャルドネの白ワインが入ったグラスを腕で押して傾けた。その一瞬がやけに鮮明に、スローモーションのように映った。
「あっ…」
彼女は恥ずかしがるみたいに苦笑いして「こぼしちゃった」と言い、すぐにフキンでテーブルや衣服を拭いた。俺はウェイトレスを呼んで余分にフキンをもらい、
さんを手伝って、新しいグラスワインを注文した。
さんは「ありがとう」と俺に礼を言いながら、ごしごしと自分の腕を拭っていた。
「
さん、ごめん」
「どうして迅があやまるの?」
「さっきの、俺がちゃんと見えていれば、防いであげられたから」
「そんなこと、気にしなくていいの」
彼女はワインで湿ったブラウスの裾を摘んで小さくなびかせ、空気を通した。
それから俺たちは白身魚のグリルを食べ、赤スグリのシャーベットを食べて、あたたかいコーヒーを飲んだ。
さんはカップに入った、たった少量のそれにミルクと砂糖をどっさり入れて、ティースプーンでぐるぐるとかき混ぜながら、やさしい声でこう言ったのだった。
未来なんて、見えないほうが楽しいんだから。
それ以来、俺は
さんといるときはあれこれと考えるのをやめた。考えたところで俺は
さんに合わせることはできないし、
さんも俺に合わせることができないからだ。でもそれは、俺をずいぶん気楽に、わがままにさせた。まるで、むきだしの自分がそこにあるような。そんな俺を、彼女はいつだってやさしく包み込んでくれた。
***
さんは、あのときと同じ、やさしい声で俺に話しかける。
「迅、目を瞑ってみて」
「うん、オーケー」
「…わたしね、楽園の夢を見たの」
「楽園?」
「そう。広大な草原や砂漠があって、森なんかも広がっていて、そのなかには滝が流れてるの。たくさんの動物たちがその楽園で自由気ままに生きてるの」
「へえ」
「人間なんて、ひとりもいないのよ」
彼女は、ひとりも、のところを強調するように二度言った。
俺は目を瞑ったまま、片手に持ったぼんち揚を頬張りながら、彼女に訊ねた。
「じゃあ
さんは、なにかの動物になってそれを見てたわけ?」
「動物じゃなかったけど、人間でもなかった。きっと形而上的なわたしが、それを見てたのね」
「形而上ねえ…」
見えないものの未来は、分からない。俺は
さんの言っていることも一理あると思った。もし、俺の見る未来のなかに形而上的な
さんがいるのなら…と仮定すると、いくらか心が軽くなった。
「ねえ迅、もしかしたら、わたしなんて最初からいなかったのかもしれないね」
「はは、なんだそれ。オバケじゃあるまいし」
「迅のサイドエフェクトは、はじめから、それが分かっていたのかも」
「そんなことないって」
果たして俺がとっさに発した「そんなことないって」という返事が、適当だったかどうかはよく分からない。「そうだね」と返したほうがよかったのかもしれないし、「そんなことは分からないさ」と返したほうがよかったのかもしれないし、どの選択肢も正しいのかもしれないし、間違っているのかもしれない。そもそもこの返答に正誤なんていうものは存在しないのかもしれない。結局どれを選んでも、すんなり納得することはできないのだ。
彼女は俺に「もう目を開けてもいいよ」と言い、俺は素直にそれに従って、目を開けた。
「迅は本当にやさしいね」
「そりゃ、実力派エリートですから」
「ふふ、そうね」
さんは「なんだか眠くなってきちゃった」と言い、あくびを手で押さえ、立ち上がって踵を返した。俺は
さんにどうしても触れたくて、もう一度目を瞑り、腕を掴もうと手を伸ばした。
さんのからだに触れて、いまそこに立っている彼女が形而上でないことを、身をもって確かめたかった。でも、確かめたらいけないような気もした。葛藤しながらも恐る恐る伸ばした手は、周辺に彷徨う空気をただ掴んだだけで、彼女には届かなかった。
「わたし、部屋に戻るね。迅も暗躍ばかりしてないで、早く寝るんだよ」
「はいはい」
「おやすみ」
「おやすみ、
さん」
彼女につられてあくびをしながら、目を細め、遠くの家の明かりをひとつひとつ数えるように眺める。俺の見る未来に、やっぱり
さんはいない。今日もあしたもあさっても、一年後だって、よろこんでいるのか、かなしんでいるのかも分からなければ、生きているのか、死んでいるのかさえ分からない。それでも俺は、俺の見る未来に、形而上的な
さんを連れて行く。たったいま、そう決めた。
ところで翌朝目が覚めたとき、彼女はどこにいるのだろう?
'Nothing is real.'
The Beatles: Strawberry Fields Forever
2019.05.15