少年
白い壁紙。
同じような色をした天井。それに張りつくように垂れ下がる、まるいシーリングライト。
腰窓。
きっと子どもの頃から変えていない花束の柄の、薄れたピンクのカーテン。ドアノブに引っかかっている、先月俺と行った水族館のアザラシの縫いぐるみ付きのキーホルダー。鞄にぶら下げるには大きくて、それでドアノブを選んだのだろう。
本棚。
漫画はほとんどない。下から二段目までは文庫本。その上はインディーズバンドとクラシックのCD数枚。さらにその上の段には、ここにも小さな縫いぐるみ。あとは香水。付けてるところを見たことがない。それからアクセサリーケース。これも付けてるところを知らない。
ポールハンガー。
コーチのショルダーバッグや、革の持ち手のかごバッグなんかが引っかけてある。クリーニングに出したときにもらうようなハンガーも少し。今日はそこに俺の制服もかかっている。面積の広い黒の学生服が、ひどく場違いに見える。そのすぐ隣りには、同じく場違いな、捨てられたみたいに佇む椅子が一脚。ここにも、やっぱり縫いぐるみを座らせている。
机。
しばらく手を付けていないように見えるそこ。参考書がきちんと整列されて、手に取られるのをじっと待ち望んでいるようだ。その上の棚には、幼い頃に友達と撮った写真や、昔飼っていたというペットの犬の写真が、派手なフォトフレームに飾り付けられている。
テレビ。
もらい物だと言っていたそれはテレビボードとの幅がまるで合っていない。この前一度電源を入れたけど、ちょっと前の型のものだからリモコンの効きが悪くて、なかなか画面が切り替わらなかった。
こうして見渡してみれば、なんの変哲もない女の子の部屋に俺は居て、内装や家具や縫いぐるみ、それに関わる思い出なんかをひとつひとつ汲みとってゆく。
さんはここで、何を思い、どんなふうに生きてきたのだろう。出会う前の、俺の知らない彼女に、想いを馳せる。
「
さん」
「…うん」
「気持ちよかった?」
「……」
「なあ、いった?」
そうして、恋人どうしになって四度目の、彼女のベッド。ちょうど今、セックスを終えたところ。
さんはあまりピロートークをせず、いつもすぐに寝てしまう。向かい合うようにして彼女の髪を撫でながら、虚ろになっていく目蓋を見詰める。俺に合わせようと必死で眠気と戦っている姿が、健気で愛らしい。
さんには俺から告白した。いわゆるひとめ惚れというやつで、同じ高校ではあるけれど、学年は彼女がひとつ上。ほとんど他人のところからここまで、いろんな人たちに助言や協力をしてもらい、やっとの思いで手に入れた、俺の愛しい愛しいひと。
「なんでそういうこと言うの」
「だって、わかんねーもん」
さんはデリカシーがないとか云々言って、俺の胸を手のひらで叩いて押した。そうして俺に背を向けて、つぶやくように「気持ちよかったよ」と言った。
「
さん、怒ってる?」
「もう寝る」
「話したいことあるんだけど」
「なら早くしゃべってよ」
「…やっぱちょっと怒ってんじゃん」
「怒ってない!」
語気鋭く振り返った
さんの肩を押さえ、覆い被さり、啄ばむようなキスをたくさん落とした。唇にはもちろん、額や、目頭や、頬や、耳や、首筋や、鎖骨にも。抑制できない好きの気持ちと、ほんのすこしの謝罪の気持ちを込めて。
「キス攻撃だ」
さんはけらけらと笑いながら力なく抵抗して、観念したのか最後には腕を巻きつけてぎゅっと俺を抱きしめてくれた。鼻と鼻を擦り合わせて、いつでもキスできるような距離で見詰め合う。彼女の目蓋は薄らと重く、先刻の眠気が微かに残っているようだった。
「公平、何か言いたいことがあるんなら、言って」
「…長期任務です」
またか、というような表情で、
さんが顔を逸らし、細く長い息を吐いた。
付き合いはじめてから、二度目の近界遠征。機密事項のため長期任務としか言えないけれど、一度目のときに散々問い詰められ、それでもかたくなに「ボーダー内の機密事項だから言えない」と返答しつづけたことを覚えていたようで、彼女は今回の任務の内容について何も訊ねてはこなかった。
「嫌って言っても、もう決まってるんでしょ」
「俺、つよいからさ。必要なんだって」
「そう」
「だいじょーぶ、すぐ帰ってくるから」
さんは抑揚のない返事をして腕を解き、横になって、また俺に背を向けた。部屋の中は、しんと静まり返っていた。俺は仰向けになって、しばらく壁と天井との継ぎ目や、その角をぼうっと眺めた。そのあとは窓、ドアノブ、本棚、ポールハンガー、制服、椅子、机、写真、テレビ。出会う前の彼女のこと。それから腕をヘッドボードの棚に伸ばして、小さな貝殻が敷き詰められた宝石箱を手さぐりで掴んだ。中には体温計と、俺が調達したコンドームが仕舞ってある。きっとこんな可愛い装飾の施された箱にそんなものが入っているなんて、誰も思わないだろう。まだいくつか残っていることを確認して、そっと元の場所に戻した。
「…泣いてんの?」
鼻をすする音が聞こえて、上体を起こして彼女を覗き込むと、今にも溢れてしまいそうなほど水分をたくわえた目が、切なげに俺を捉えた。
わたしと任務とどっちが大事なの、とでも言うのだろうか。
さんがそんなこと、言うわけないか。でももし言われたら、どう答えればいいのだろう。部屋がふたたびしんとした。勝手な今後の想像を繰り返して、俺はなんとなく面倒な気持ちになった。
「わたし、公平のことすごく好き」
「…そりゃ、どーも」
「会うたびに、どんどん好きになってくの」
「うん」
「それなのに、好きになればなるほど、寂しくなる」
いきなりの告白に呆気にとられて、ぎこちなく相槌をうつ。一瞬でも面倒だなんて思った自分に嫌気がさす。ありがとう。俺も好き。寂しくさせてごめん。俺のほうが好き。
さん。ごめん。寂しくなんかないよ。俺が居るから。俺も好き。俺も。俺も。彼女の横顔を見詰めながら、頭の中でさまざまな言葉が飛び交う。
さんは目だけを俺のほうへ遣り、やさしくほほ笑んだ。ひとすじの涙が、目蓋の切れ端から、盛り上がった頬を伝ってすうっと垂れた。
「帰ったら、今度は動物園行こうね」
そうしていちばん伝えるべき言葉がようやく頭の天辺に浮かび上がり腹の奥底にすとんと降りてきたとき、俺はもういちど
さんにキスの雨を降らせた。頭やうなじ、耳、それから肩を掴んで翻して、頬に張りつく涙を舌ですくい上げ、唇に深く、ながく。五感ぜんぶを使って彼女に伝え、彼女を感じる。離れていても思い出せるように。忘れてしまわないように。
さんを、俺を、刻んでゆく。
俺はただ、
さんを守りたいだけ。
辿り着いた、たったひとつの答え。好きなひとを守るために、強くなりたい。
それはまぎれもない、俺の本心だった。それでも、所詮は男の性なのだろうか、若しくはそれゆえの、わずかに残された虚栄心がそうさせたのだろうか、彼女の荒い呼吸や背中を撫でるしっとりとやわらかい手、上気した顔を目の前にしてしまえばそんな想いとはうらはらに、子どもじみた口振りでひどく見当違いな言葉を紡いでしまうのだった。
「
さん、もう一回しよう」
2019.05.22