ひどくよわい







 ちゃん。
 鞄を肩にかけ、下駄箱へと向かうわたしを、後ろから先輩が追いかけてきて、呼びとめた。振り返って、でも、うまく顔を合わせることができなくて、すぐに逸らしてしまった。それをまた、先輩が追いかけるみたいにして覗き込んだ。一緒に帰ろうよ。いま、わたしの顔は、ちょっと赤くなっていると思う。


***



 わたしたちが知り合ったのは学校のなかじゃなくて、ボーダーの施設のなかだった。先輩の隊だけ真っ黒なスーツを着ていて、背広が風になびいて、とても目立っていて、はじめはそれがほかの隊員と違った感じでかっこいいなんて思った。ランク戦で勝負したときには、その強さとチームワークに圧倒されて、わたしの隊の成績は最下位。さんざんだった。それなのに、わたしは先輩のことばかり見ていた。試合の後も、ずっと目で追いかけては、胸の奥で膨らんでいく気持ちを抑えるのに必死だった。


 数日後、偶然通りかかった二宮隊の作戦室の前で、先輩とばったり会った。あまりにも急な遭遇に、わたしの頭はすっかり思考を停止させてしまい、とっさに、お疲れさまです、と社会人気取りな挨拶をした。そうしたら、先輩はちょっと来て、と言い、わたしの腕を掴んでそのまま作戦室のなかへ引きずり込んだ。はじめて入った先輩の隊の作戦室。わたしのところよりもずっと清潔に保たれているそこは、あんまり物がなくて、すこし不気味な感じがした。

ちゃん、俺のこと好きでしょ」

 自分よりも歳上の、ちょっと好きかもしれないなんて思っている男のひとにそう言われて、わたしはうれしさと緊張感と、言いようのない恥ずかしさに襲われて、なにも反論できなかった。

「はい」

 馬鹿っぽく即答してしまったわたしに、先輩は、やっぱりねえ、と意地悪そうにほほ笑んだ。まるで最初からぜんぶ分かっていたみたいに。どうして分かったんですか、と理由を聞くと、先輩はそんなの、顔見ればすぐ分かるから、とまた意地悪そうに笑った。

「この前のランク戦のときにも思ったんだけど、ちゃんってさ、そうゆう感情がいつも顔にはっきり出ちゃってるよね」

 そうですか、とわたしは答えた。緊張していたのと、なんだかちょっと馬鹿にされているような感じがして、つい強張った声になってしまった。

「はは、そういうとこ」

 可愛いよ。先輩はそう言って、触れるか触れないかくらいの軽さでわたしにキスをした。

「俺、可愛い子好きなんだ」



 それからまた数日が過ぎて、いろんな話をするうちに、わたしも先輩も同じ高校の生徒なのだと知った。ボーダー隊員どうしの恋愛はなにかと面倒なことになりやすいと風の噂で聞いていたので、なるべく口外しないことにして、頻繁には会わなかった。けれど実際にそうなってみると、そこまで面倒でもないような気がして、すこしだけ気持ちが楽になった。

 ときどき、人目をはばかり、こっそりとふたりで下校することもあった。となりに並んで歩いているというだけで、緊張して恥ずかしくて、一緒に帰る日は毎回手汗がひどかった。二度めに一緒に帰ったとき、手を繋ごう、と言われた。この手汗のことを知られたくなかったから断ろうとしたのだけれど、なんて言って断わったらいいのか分からなかった。無言のままずっと考えていたら、先輩が繋ぎたくないならいいよ、と言った。べつに、そういうわけじゃ、ないんですけど。途切れ途切れに伝えると、今度は優しく笑って、髪を梳くように撫でてくれた。わたしはスカートに手のひらを擦り付けてから、そうっと先輩に手を差し出した。


***



 俺の家行こっか。
 学校を出てしばらくして、大通りを抜けたあと、先輩がわたしの手を掴んだ。あの日から、一緒に帰るときにはかならず手を繋ぐようになった。そうは言っても、握るのでもなく触れるのでもなく、やわやわと緩く絡んだ指先がすこしだけ引っ張られて、そのまま先輩の半歩後ろを黙って歩くのが常だった。繋いでいるあいだは地面を蹴る足にちっとも力が入らなくて、宙に浮いているような気分だった。


 先輩の家はかなり立派な造りをしていた。門があって、玄関まではちょっとした距離を歩かなければいけなかったし、家の中も、家族の人数よりも部屋の数のほうがずっと多いみたいだった。わたしは先輩の後ろにくっついて、二階へ上がった。廊下のいちばん奥の部屋が、先輩の部屋だった。

 どーぞ。
 そうっと足を踏み入れると、そこもやっぱり作戦室みたいに清潔なのだった。部屋自体はそんなに広くないけれど、クローゼットや本棚、コレクションケースなどの作り付けの収納はぜんぶ壁に埋め込まれていて、テレビも壁に直接取り付けられていて、とにかくすっきりしている。そのなかでひときわ幅を取っているのがベッドだった。先輩はその縁に座り、手招きした。それからマットレスの表面をぽんぽんと弾ませ、ここ、とわたしをとなりに座らせた。

 ふたりきりのとき、わたしはいつも先輩の言葉に逆らうことができない。べつに逆らうつもりもないのだけれど、男のひとの部屋にのこのこついてきて、ベッドの上に座ったりなんかして、辿る先はなんとなく目に見えていた。スカートの裾をぎゅっと握って手汗を拭う。じっとりと湿った手のひらを見詰めながら、なんだか頭と体がべつべつの生きものになってしまったように思った。体じゅうに血がどくどく流れて、沸騰しそうなほどあつくなっているのに、頭はいたって冷静に、わたし、これからこのひとと、セックスするんだろうなあなんて、他人事みたいに考えているのだった。


 ちゃん。
 先輩がわたしの名前を呼んで、肩をそっと掴んでキスをした。あのときみたいな、ふわりとしたのは一回だけだった。すぐに噛みつくような二回めがあって、わたしは薄く口をあけ、先輩の舌に自分のそれを合わせて、精いっぱい絡ませた。押し倒されて、また同じようなキスがつづいて、呼吸が苦しくなっていく。


「せんぱい」

 涙目になりながらそう呼ぶと、先輩は、こういうときくらい名前で呼びなよ、と言った。でもわたしたちは、あくまで内緒の関係なのだ。それにこの関係をできるだけ長くつづけたいから、ふとした瞬間にぼろが出て、名前で呼んでしまわないように、わたしはもういちど、先輩、と呼んだ。先輩は、ムードが出なくて嫌だな、と漏らしていたけれど、お互いの制服の上着を脱がして床に放り、シャツのボタンに手をかけて、何度かキスをしていくうちに、やっぱりその呼びかた、なんか興奮するね、と熱を帯びた目で囁いたのだった。

「声、我慢しなくていいよ。今だれもいないから」

 先輩とのキスはくすぐったかったり、そうかと思えばべたべたに濃かったりと、深さも長さもさまざまで、わたしはたちまち心地よくなって、なにもかもをゆだねてしまうのだった。


 ちゃん、

 押し寄せてくる快感の波間で薄く目を開けると、先輩の顔が、思っていたよりもすぐ近くにあって、胸が疼いた。先輩は眉根を寄せて、すこし泣きそうにも見えるくらいの、せつなげな表情をしていた。そのときわたしは、男のひとの、ひどくよわい部分を見たような気がして、先輩のことをものすごく、ものすごく好き、と思った。それから、背中に手を回して、掠れた声でせんぱい、と返事をした。せんぱい、キスして。







2019.06.01