やれやれ
いまから、そう遠くない未来の話をしよう。
俺がいつもどおり任務を終えて支部に戻ると、キッチンカウンターのところで、
さんがひとり、酒を呷っている。飲んでいるのは、たぶん、バランタインのオン・ザ・ロック。頬杖をついて、焦点の定まらない目で、帰ってきた俺をぼうっと見詰める。その顔は、酔っ払っているからなのか、泣き腫らしたからなのか、真っ赤にむくんでいて、ひどい仕上がりだ。それを見て、俺は小さなため息を吐く。やれやれってね。
「じーんー」
彼女は腫れた目から大粒の涙を流して俺を呼ぶ。
「
さん、また振られたんだろ」
「振られてない!」
振ってやったのよお、と、
さんは俺の腕を掴んでおおきく左右に揺さぶる。酒のせいで、力の加減ができなくなっていてちょっと痛い。
正直なところ、
さんの未来なんてほとんど分かっているんだけど、それでも、せめて話だけは真剣に聞いてやる。いつもの、彼女の前での、俺の役目。だって、そうしないと拗ねちゃうからさ。どうせまた見えてたんでしょ、とか言って。
「相手にカノジョでもいた?」
俺が意地悪く訊ねると、
さんは掴んでいた腕を離して、グラスを握りしめ、勢いよく飲み干すんだ。
「カノジョじゃなくて、家庭があったの」
震える声はさっきとくらべものにならないほど弱く、かなしみに満ちている。そんな彼女の様子を見て、俺はまた、やれやれ、と思う。ほんとうに、このひとは。
「いつも年上とばっかり付き合うからだよ」
グラスを傾け、注ぎ足そうとする
さんの右手を制止して、茶色のガラス瓶に蓋をする。飲み過ぎは体に毒だからね。そのままカップボードに仕舞い込むと、
さんはむすっとして唇を尖らせる。真っ赤な顔も相まって、蛸みたいだ。俺はそんな彼女に向かって言う。
「
さんみたいなひとには、年下もいいと思うけどねえ」
俺みたいな。
カウンターチェアに座る
さんの腰に手を回して、顔を覗けば、彼女はじっとりとした視線を俺に送って、「それ、本気で言ってるの」と訊ねる。素面のときには、回した手の甲を抓ったり、叩いたりして引き剥がそうとするのに、酔っ払っているときにはどこを触っても、ちっとも抵抗しない。服の上からでも分かる腰のくびれをやさしくさすりながら伝える。本気だよ。
「俺、
さんのこと本気で好きだよ?」
そう言ってにっこり笑いかけると、
さんもつられてちょっと笑う。それから火照った額にキスをして、唇にも同じようにキスをする。強いアルコールのにおいが鼻腔に入り込んでくる。彼女の唇は柔らかく、しっとりと湿っている。
「わたしと付き合ったら、迅、不幸になっちゃうよ」
「なんで?」
「…わがままだから」
「わがままだっていいよ。
さん、もっと俺のこと振り回してよ」
俺の見る未来を、
さんが変えてみせてよ。
グラスを握っていた手は、いつのまにかまた俺の腕を掴んでいて、でも今度はほとんど力が入っていない。眠くなってしまったのだろうか、それとも甘えたくなったのだろうか。俺にはどっちでもいいことだ。もういちどキスをして下唇を食むと、それに応えるように彼女も唇を食み、熱い吐息を漏らして呟く。
「今日は、ひとりで寝たくないの」
潤んだ瞳が、俺を捉える。
「だから、迅と一緒に寝る」
「うん、わかった。俺の部屋でいい?」
俯いたまま、黙って頷く
さんの肩を抱いて、おぼつかない脚を支えながら、自室へ向かう。
ベッドの壁側に彼女を寝かせて、俺はそのとなりへ。シングルサイズにふたりで寝るのはさすがに窮屈で、互いに向き合って、体をくっつけて眠る。
さんは俺の胸に顔を寄せて、すでにしずかな寝息をたてている。俺はすっかり目が冴えてしまって、暗闇のなか、なにをするわけでもなく、月明かりに照らされた天井をぼうっと眺める。それから、翌朝の
さんを思い浮かべる。彼女はこの状況に驚くだろうか。怒るだろうか。照れるだろうか。落ち込むだろうか。これは俺だけの秘密にしておくけど、見えた未来がそこまで悪いものでもなかったから、無意識に笑みがこぼれて、緩む口元を手のひらで覆い隠すんだ。
「ん…」
深い眠りのなかで顔を擦り付ける
さんは、まるで猫みたいだ。まったく、蛸だの猫だの、忙しいひとだと思う。俺は口元に被せていた手のひらで彼女の髪を撫で、尻のほうへと下ろしていく。きゅっと引き締まっていて、適度な弾力があって、それでいて女性らしい柔らかさや丸みがあって、手に馴染む、ほどよい大きさのそこ。まずは包むように触れて、手のひら全体でその心地よさを感じながら、次第に円を描くように撫でたり、指をばらばらに動かして弾力を確かめたり、緩やかな曲線を指でそうっとなぞったりする。
さんは時折くすぐったそうに身を捩って、でも目を覚ます気配はない。だからといって寝込みを襲うのは気がひけるし、俺は彼女のことが好きだけど、それと同じくらい今の彼女との関係も大切にしたいから、そこから先は、ゆっくりでいい。そんなふうにして、俺も少しずつ、眠りにつく。
もちろん未来なんていうのはきわめて不確実なものだから、この話には多少の願望や推測も含まれてるんだけどね。
***
そうして俺は、いつものように任務を終えて支部に戻り、玄関のドアを開け、真夜中の、誰の姿もない真っ暗な廊下に向かって「ただいまー」と声を掛けた。当然返事はなかったけれど、そんなことは気にも留めないで、薄らと明かりの漏れ出ているキッチンへ歩を進める。そこには、顔を真っ赤に腫らして鼻をすすり、無言でバランタインを呷る
さんが居るのだった。
「じーんー」
俺は自分の見た未来を確信し、愛しさを込めて小さなため息を吐いた。やれやれ。
2019.06.04