さんといるとき、僕はもう途轍もない睡魔に襲われる。理由は分からない。体は至って健康的で、寝不足ということもないし、程々の食欲も性欲もある。昨夜は防衛任務だったが、そもそもトリオン体での活動なのだから疲労困憊することもない。それなのに、眠い。

 中間テストに向けての勉強をする約束をしていたのだったか。彼女が作戦室に来て、鞄から徐ろに英単語帳とルーズリーフを取り出しテーブルの上に広げたところから、すでに眠い。僕は文法の参考書を取り出して、いくつもの例文を目で追った。単語の切れ目や句読点が、まるでないように映る。これは呪文だ。睡魔を呼び寄せる悪い呪文。途轍もない眠気が、僕にそう認識させている。


 暗記が得意な人というのは、目で見て、それを静止画像のように脳内に記憶するらしい。さんは暗記が得意でないほうだったから、新出する単語を拾ってはルーズリーフに書き写してゆく。ひとつの単語を、10回ずつ。ぶつぶつ呟きながら、発音やアクセントを確認し、書き写してゆく。その呟きが、波音のように聞こえる。小さな波が、浜辺に打ち寄せては引いてゆく。僕はその波打ち際に立ち竦み、そのゆらぎを耳で聞き、全身で感じる。次第に頭がぼうっとして、意識が遠のいては、また引き戻され、それを繰り返している。

「ねえ、呟くの、やめてくれない」
「うるさかった?」
「さっきから、全然集中できないよ」
「ごめんなさい」

 彼女は謝って、すぐにまたルーズリーフへと視線を落とした。さざ波がふたたび聞こえ始める。口元は書いた文字をなぞるように動いていたけれど、音は発しなかった。僕はまた、悪い呪文を追いかけた。目は半分も開いていない。


「眠いなあ」

 ため息交じりに言うと、さんは顔を上げ、参考書をちらと横目で見てから、僕の顔を見た。それから、思いついたように声を弾ませ、白紙のルーズリーフに適当な4桁の数字をふたつ、無造作に書いた。

「なにか難しいことでも考えたら」

 そう言って、ふたつの数字の間に掛け算や割り算の記号を加えた。僕は彼女の提案に乗って、ふたつの数字の四則計算をした。それも電卓を一切使わず、暗算できそうなところであっても、敢えて筆算をして面倒なやりかたで解いた。そのほうが眠気が覚めると思ったからだ。でも、そんなことはなかった。相変わらず睡魔は僕のすぐ近くにいて、隙あらば僕を暗くて深いその闇の中に引きずり込もうと、身を乗り出し待ち構えている。

「もっと難しい問題出してよ」
「じゃあ、そこに漢字でバラって書いて」
「バラ?」
「そう」

 僕は、深い赤色の薔薇の花を一輪、思い浮かべた。それから漢字の薔薇を思い浮かべた。薔薇。画数がやたらと多いことだけが思い出された。あとは草かんむり。その下の部分が曖昧で、眠くて、うまく思い出せない。ルーズリーフに草かんむりをふたつ横並びに書き、そこで止まった。思い出そうとしても、もうこれ以上思い出せない。そして思い出せないと分かった途端に、どっと睡魔がのしかかる。ただひとつ明瞭になったことと言えば、つまり僕は彼女といると、何をしても眠い。

 さんは飽きもせず、背中を丸め、齧り付くように単語を書き写す。紙の上を走るペンの音が、また波音のように耳に入ってくる。眠い。僕はソファの背に頭を預け、ぼんやりと彼女を眺める。そうして薄れゆく意識の中で、彼女の衣服を少しずつ脱がしてゆくのを想像する。肩に掛かる髪を後ろへ避けてやり、ブラウスのボタンを淡々と、ひとつずつ外してゆく。行き場のない彼女の手が、僕の手に重ねられる。けれどもそれは抵抗と言うには力なく、僕はボタンを外すのを止めない。添えるように重ねられた手はしっとりとしていて、長いことペンを握っていたせいかすこし熱を含んでいる。ふたつの心臓の音が近くなり、それは徐々に大きくなる。遠くからまた、波の音がやって来る。僕はボタンをすべて外すと、襟を摘んで寛げ、白く浮き出た鎖骨に触れる。広く開いた胸元の肌は瑞々しく張りがあって、見ただけでも柔らかいのだと分かる。怯えたような、湿った眼差しが僕を呼ぶ。そうして、下着に手をかけ、無防備な首筋に喰らいつく。どれほど噛めば血が滲むだろうか。この柔らかな皮膚を切り裂いたとき、何が零れ出るのだろうか。たとえばそれがトリオン体であったなら、星屑のような小さなトリオンの光が鮮やかに噴出し舞い上がり、それはひどく美しい光景なのだろうと、そんなことを思いながら。


「ねえ、何を考えてたの」

 彼女が覗き込み、僕に訊く。

「薔薇のことを考えてた」
「嘘」
「嘘じゃないよ」
「ほんとうはもっと別のことを考えてたでしょう」

 ずいと近寄り、挑むような視線を送る彼女に先の想像を話せるわけもなく、僕は黙り込んで、紙の上の膨大な数字の羅列とふたつの草かんむりを見詰めた。筆圧の弱い、細い線が眠気をより加速させる。菊地原くん。眠りに攫われゆく僕を引き留め、さんが言う。彼女の声はいつだって僕の耳にやさしく響く。

「いま考えてたこと、わたしにして」

 重たい目蓋を擦り、振り向けば、彼女のあたたかい唇が、ゆっくりと僕の唇を食んだ。思わず目を瞑りたくなったが、目を瞑ったら眠ってしまうかもしれない。僕は薄らと目を開けたまま、彼女の長い睫毛を見ていた。どこか遠くでまた、波の音がする。心地よいゆらぎを生み出すそれは、彼女からしているのかもしれない。或いは彼女自身がそれなのかもしれない。咄嗟に、蹂躙という漢字が頭に浮かんだ。薔薇のことは、もう何も思い出せない。そうして僕は彼女の後ろ頭を撫で、ソファに押し倒す。ブラウスのボタンを外して、真っ白な首に噛み付く。波の音。蹂躙と、その画数。ああ、眠い。







2019.06.12