さびしいよ
少女とその処女性、脆性破壊のつづき







 不規則な水玉模様を描くように、わたしの脚のあいだを、涙のしずくが垂れていく。ぽたぽたと落ちて、染みになって、やがてそれは地面の熱に気化されて、跡形もなくなっていく。

「サボってんじゃねえよ」

 上履きの、薄いゴムの靴底がちいさな砂利を擦って、奇妙な音を立てながら、伊之助が近づいてくる。独特な足音と、溌剌とした声、強調された語尾から、顔を上げなくとも彼だとわかる。わたしは痺れた脚を引きずって、伊之助から逃げるように、自販機の向かいの、背もたれのない、色褪せたベンチにしずかに座る。

「伊之助もな」

 下を向き、目を合わせないまま言葉が震えて、彼はわたしの前にしゃがみ、首をかしげ、覗きこむようにして、じいっとわたしを見詰めた。

「泣いてんのかよ」
「……そうだったら、なんなの」
「なんもねえけど」
「じゃあ、放っといてよ」
「……これ、やる」

 伊之助は、バックパックのように持ち手に腕を通したサブバッグのファスナーを開け、なかから、透明なビニール袋に入ったパンを取り出して、わたしの膝の上に乱暴に置いた。

「どうしたの、このパン」
「権八郎にもらった」
「誰それ」
「知らねえの? パン屋の長男」
「炭治郎くんか」
「毎日、かたちが変なのとか失敗したやつとか、くれんだよ」
「もらいもの、わたしにくれるんだ…」
「あ? いらねーの? じゃ俺が食う」
「いや、もらうけど」

 ビニール袋のなかのパンは犬のようなかたちをしていた。ふかふかしたおおきなまるい顔と、その両端の、斜め上のところに、ちょこんとくっついた、同じ生地でできたちいさな丸。これは耳。顔には、チョコチップの、異様に離れた目と、擦れて消えかけている、チョコソースの歪んだ口。とても可愛いとは言えないその犬は、さびしげな表情でわたしを見詰めていた。
 鮮やかな赤いテープ、口をぎゅっと絞られたビニール袋を、力まかせに引っぱる。ビニールの透明が、わたしの指に引きのばされて、やわらかく、薄くなって、指先の、いちばん近いところから破れた。そこから、不細工な犬の、片耳が出た。耳は、思ったよりも顔にしっかりとくっついていて、わたしはそれにかじりつく。

「お前の泣き顔、そのパンに似てるな」
「……」
「すっげえブス」

 片耳を食べ、顔の、ちょうど目のあたりを口にして、咀嚼していると、伊之助がまた、じいっとわたしを見た。いつもの、おもしろくもなんともない、たとえば雨が降りそうだとか、すこし肌寒くなってきたとか、山の樹々が秋めいて、赤や黄色に染まった葉が増えてきたとか、自分を取り巻く環境の、何気ない変化を話すときとおなじように、わたしとパンを、共食いだと罵った。

「もう、うるさいよ」
「お前さ、そういう顔、ほかの奴にあんま見せないほうがいいぞ」
「なんで」
「なんでって…、わかんねえけど、なんとなく」
「伊之助、あんた、ほんと失礼」
「はあ? 心配してやってんだろうが」

 伊之助がくれた(正しくは、炭治郎くんが伊之助へくれたものだけれど)不細工な犬のパンは、あっという間にわたしのお腹へおさまって、口腔にほのかな甘い風味を残して、跡形もなく消えて、なくなってしまった。
 目線が、自販機の横のゴミ箱へ、無意識に向けられる。さっき投げ入れた、先生が描いたわたしの絵。自分がどんな横顔をしていたのか、もう忘れてしまったけれど、あのとき、わたしはきっと、さびしげな顔をしていた。ちょうど、いま食べた、あの不細工な犬のパンみたいに。

 わたしは破れたビニール袋を握りしめ、自分の膝に額をくっつけるようにして、背中をきゅうっとちいさく丸め、うずくまる。

「お、おい、なんだよ」
「なんでもない」
「なんでもないわけないだろ、腹痛か」
「さびしいよ、伊之助」
「おお……」
「さびしいし、くやしい。すっごく」

 弱々しい声音で紡がれた言葉は、脚のわずかな隙間から、透明な空気の波に揺られて、伊之助の耳へ届いたようだった。


 さびしいよ。

 そうだ、わたしは、さびしいのだ。さびしくって、やるせない。自分が、あまりに子どもらしく、先生が、あまりに大人らしかったから。


「泣きやむまで泣け」

 そう言って伊之助の手が、割れ物でも触るみたいに、恐る恐る、そうっとわたしの背中へ触れた。触れたところから、あたたかい体温が、ゆっくりと伝わってくる。上下に行ったり来たりして、しだいにわたしの呼吸と合わさり、同調してゆく。あったかくて、乱暴で、やさしい手のひら。

「あんたの日本語、意味わかんない」

 わたしの指摘を無視して、伊之助はいちどだけ、チェッと舌打ちして、だまってわたしの背中をさする。彼はいま、どんな顔をしているのだろう? 顔を上げ、つよがりな自分をしまいこんで、わたしはこんどこそ「ありがとう」と言おうと思ったけれど、背中を撫ぜる伊之助の手があんまり気持ちよかったので、そのまましばらく、泣いたふりをしていた。







2019.11.12