秘密の花弁
おろかな蕾の後日談
※我妻善逸くん視点








「なあ、炭治郎。もしかしたら俺は、とんでもないものを見てしまったかもしれないんだ。

 一昨日さ、俺、外の水道のちかくで伊之助と言い合いになって、手さげの鞄を蹴り飛ばされただろ? それを拾いに校庭に出たら、ちょうどあのいちばん奥の、なんだっけ、あそこの教室…、そうそう生徒指導室だ、そこの窓が、ほんのちょっとだけ開いてたんだよ。カーテンは締めきってあるのにさ、なんだかおかしいなあと思って、首を伸ばして覗いてみたんだ。そしたらそこにうっすらと人影が見えて、でも、あんな教室、普段だれも使わないだろう? だから俺、幽霊か何かだったらどうしようかとも思ったんだけど、やっぱり気になって覗いてみたんだ。そのとき、突然木枯しみたいな風が吹いて、カーテンがこう、ぶわあーっとおおきく靡いたんだよ。そうしたらさ、そのカーテンの隙間から、何が見えたと思う? あの冨岡先生とちゃんがさ、ふたりで、その、抱き…、抱きあってたんだよ!

 俺も自分の目を疑って、何度もまばたきしたり、まぶたを擦ったりしたんだけどさ。いや、嘘じゃないって。先生はうしろ姿しか見えなかったし、ちゃんは腰にまわされた先生の腕に隠れてからだの半分も見えなかったけど、たしかにあのふたりは抱きあっていた。しかも、そのときのちゃんのきつく閉じられたまぶたは泣いたあとのように薄桃色に染まって、頬や耳なんか林檎みたいに真っ赤にして、恥じらいがあって、……あれはあきらかに恋をしている女の子の顔だったんだ! だからなんだか俺は見ちゃいけないものを見たような気がして、すぐに目を逸らしてその場から走って逃げたんだけれど、あれはきっと、ふたりの密会にちがいないんだ。


 それにしたって、まったく、あのひとも教師の風上に置けないよなあ。日ごろ俺たちのことを理不尽に怒鳴り散らしているくせにさ、結局は可愛い子をつかまえて、自分の立場も弁えず色恋にうつつを抜かしているんだから。
 なに、冨岡先生は在校生にそんなことするわけないって? そんなの、なんで炭治郎がわかるんだよ。だいたい男なんてものはな、可愛い女の子はどうしたって自分のものにしたくなるもんなんだよ。まわりを見てみろよ、ほら。こんなに甘くいいにおいがして、やわらかそうな肌を見せつけられて、そのうえ振り向いてにっこり微笑み返されでもしたら、もう辛抱ならないだろう? それでもちがうって? …そんなに冨岡先生が理性的なひとだって言うんなら、炭治郎、さすがにこれは俺たちで先生に直接訊いてみるしかないよな──」




 そういうわけで、俺と炭治郎は、昼休みに冨岡先生がいるであろう、廊下の突きあたりの階段へと向かった。

 先生は案の定、いつもの階段の下から二段目のところに腰かけ、傍らに紙パックの牛乳を置いて、どこか一点をぼうっと見つめながら、ひとりぼっちで菓子パンにかじりついていた。俺たちが先生の前に立ち止まると、先生はゆっくりと目線を上へと動かし、俺の黄色い髪と炭治郎の揺れるピアスをじっとりと睨み、怪訝そうな顔をした。


「なんだ、何か用か」
「何か用かって…、先生、たまには昼食くらい可愛い彼女と食べたらどうなんです?」
「善逸、いきなり失礼だろう」
「彼女? 何を言っている」
「隠したって無駄ですよ。俺は見たんだ。一昨日、あんたが生徒指導室でちゃんと抱きあってるのを」
「……あれは」
「言い訳しようったって、俺は何もかも分かってるんだ。あのときのふたりの雰囲気は絶対に教師と生徒のそれじゃなかった! あんたの音はよく聞かなかったけど、ちゃんの音はいつもと全然ちがってきこえたからな」
「あの、冨岡先生、ほんとうにすみません。善逸、ちょっと早まり過ぎだ」
「どうなんですか、冨岡先生。あんたみたいな指導者が自分の教え子を、ましてや在校生に手を出すなんて、いったいどういうつもりなんですか」
「……俺は手など出していない」
「嘘だ、嘘だ! 確実に触ってたじゃない! ちゃんのか細い腰に手をまわしてたじゃない!」
「あれは指導だ」
「はっ、そんな指導があるかよ。あったとしたら是非教えてもらいたいね」
「善逸!」
「あれは歴とした生徒指導だ。それ以上でも以下でもない。指導教諭が違反者を罰して何が悪い」
「ほらな、善逸、冨岡先生がこう言っているんだから、もうこのへんでよさないか」

 俺はもうちょっとで冨岡先生の胸ぐらへ掴みかかるところだった。だって、あのときのちゃんの顔を思い浮かべたら、とても生徒指導のひとことでは片づけられないはずだ。それなのに、あの男はひどく落ち着き払って、単なる指導だと言い張った。まったくもって腑に落ちなかったけれど、俺は半ば炭治郎に引きずられるようにしてその場をあとにした。


 炭治郎は廊下を歩きながら、「だから俺の言ったとおりだったろう、冨岡先生に限ってそんなことはないと思ったんだ」とかなんとか言って、先生の側につきつつ高揚した俺を宥めようとしていたけれど、きっとお前には心がかあっと熱く燃えて揺れ動くような、そういう身も心も震えあがるような恋をした経験がないのだろう。そういうときの心酔した人間の力には余程計り知れないものがあるのに、俺は、強いて顔だけは男前なこのふたりがそれを知らずに今日まで生きてきているのだという事実に、哀れみを感じずにはいられなかった。



 教室に戻ると、ちゃんは席について次の授業の準備をしていた。
 彼女はいつからか髪を染め、服装も違反をすることが多くなっているけれど、俺からすればそんなのは可愛いものだった。いくら外見を変えたところで、ちゃんは入学した頃から変わらず、賢くて、思いやりがあって、なにより笑顔が素敵な女の子なのだ。正直なことを言うと、俺は前々からちゃんのことをちょっといいなあと思っていたから、俺が風紀当番で彼女の服装をチェックしなければならないときには、違反箇所を少なく書いてごまかすこともあった。


ちゃん、すこし話があるんだけど…」


 炭治郎がトイレへ行っているあいだに、俺は事の真相をたしかめるため、ちゃんへ話しかけた。冨岡先生へ訊ねるときには、炭治郎を連れて行かなければ少々心許なかったけれど、女の子ひとりに男ふたりで詰め寄るのは傍から見てもあんまり都合が良くないと思ったので、俺ひとりで、なるべく声をちいさくして話すと、ちゃんも背を屈め、密めくように「どうしたの」と返した。

ちゃん、これは、ほんの一瞬見えてしまっただけだからどうか勘違いしないでほしいんだけれど、俺、一昨日、生徒指導室で冨岡先生とちゃんが、ふたりきりでいるのを見ちゃったんだ」
「えっ……」
「俺もたまたま校庭に落とし物を拾いに行っててさ、それで、カーテンがぶわあーっとおおきく風に揺れて、その、窓からちらっとだけ見えたんだよ。ふたりが、こう、抱きあっていたように見えたんだけど、ずっと前から、ふたりはもう、そういう関係だったのかなって」


 そこまで話したところで、おどろきのあまり口を開けて固まっていたちゃんが急に両手で顔を隠してうつむいてしまったので、とたんに俺はあせりだした。
 彼女を泣かせてしまった。図々しくお節介なことを言ってしまった。そんなふうな思いが頭のなかを駆けめぐり、額からは変な汗がどっとふきだした。

ちゃん? ええっと、ごめんね、ごめんね、ほんとうにこんなこと、決して悪気はないんだ、俺はただちゃんのことがものすごく心配で……」

 彼女は両手で顔を覆ったまま、ちいさく首を横に振った。俺はつづけざまに「実はさっき、冨岡先生へもおなじことを訊きに行ったんだけれど、あれはただの生徒指導だって無愛想に言うばかりで、なんにもほんとうのことを話してくれなかったんだ」と言おうとして、でも、とてもそれを伝える気にはなれなかった。きこえてくる彼女の音が、俺があのとき校庭できいた音とよく似ていたのだ。鼓動が、どんどん速くなっていくのが分かる。

「善逸くん、ありがとう」
「俺はそんな、感謝されるようなことは……」
「ううん、心配かけてごめんね。このあいだのあれは、生徒指導の呼び出しだったの。わたしの違反回数、ものすごいことになってたみたいで」
「そっか…」
「善逸くんに、恥ずかしいところを見られちゃったなあ」

 そう言って眉を八の字にさせながら困ったように笑うちゃんの顔は、あのときとおなじ薔薇色のかがやきをもっていて、それはまさしく、恋をしている女の子の顔そのものなのだった。そのあまりのせつなさと、さらにはきこえてくる彼女の繊細な、それでいてくっきりと粒の際立つ美しい音色に、俺のからだは反響し、くぎづけになり、トイレから戻ってきた炭治郎に肩を叩かれるまでずっと、彼女から目を離すことができなかった。


「先生のこと、好きなの?」


 予鈴の音、廊下を走る上履きの音、ロッカーの扉を開閉する音、椅子を引く音、生徒たちの話し声──、すこしずつ増えていく雑音のなか自分でも信じられないほど冷静な調子でつぶやくように発せられたその問いに、ちゃんは教科書のページをめくりながら伏し目がちに唇を震わせ、秘密、とだけ応えた。







'秘密の花弁につつまれたあるひと時の私の純潔'
2019.10.21