1. はじまり
きっかけは、ほんのささいなこと。日常のなかにどこにでもある、だれも気にしないような、そんなことだった。
◇
お昼ご飯のあと、トイレから教室へ戻る途中、ハンカチで手を拭きながら歩いていると知らない男の子に声を掛けられた。すこし髪が長くて、癖毛で、あたしよりも頭いっこぶんくらい背の高い、すらっとした体型の、きれいな顔の男の子。
「すみません」
「はい…?」
「出水先輩いますか」
「出水?ちょっと待ってね。えっと…」
「1年の烏丸京介です」
教室のベランダに通じる掃き出し窓のまえでクラスメイトとしゃべっていた出水を見つけて、あたしは声をかけた。
「出水、後輩来てるよ」
「おっ京介」
出水は扉のほうを見て、彼へ手を振った。彼は、ぺこりと頭を下げて会釈した。
「キレーな顔だね、あの子」
「おい
、あんまからかうなよ」
「からかってないよ」
あたしは両手を顔の横まであげて、なにもしていないことを証明して笑った。出水はぱたぱたと上履きを鳴らして扉のほうへ駆け寄っていく。彼はあたしをちらりと見たあと、「このまえお願いしたオサムの指導のことなんすけど…」とか言って、出水とふたりで教室を出ていった。きっとボーダーの話だ。
高校に入学してからわかったのだけれど、ボーダーの高校生はあたしが思っていた以上に多かった。A級やB級の子たちは少ないけど、C級を含めればけっこうな数だった。なんでみんな、あんなにおっかない仕事をやりたがるんだろう。あたしにはちょっと理解できなかった。あたしは三門市内の普通高校に通う、普通の高校生だ。いちばん安全なタイプの人間だと思っているので、ボーダーの子たちに比べればこれといった苦労も、特筆すべき点もほとんどない。強いて言うなら、ひとり暮らしをしてるということくらい。
あたしの親は、あたしが中3のときにリコンした。お母さんはリコンするちょっと前から心のビョーキになって、それからずっと実家に帰っている。それもあって、あたしはお父さんのほうに付いていくことになったのだけれど、仕事の赴任先で新しい恋人ができたとかなんとかで、結局あたしのことが邪魔になったようだった。それで、あたしだけひとり暮らしをすることになった。「お金のことは心配いらないから、どこでも好きなところで生活していいよ」とお父さんに言われて、真っ先に思い浮かんだのが三門市だった。ほかの人に言わせると「ボーダーでもないのにこんなところでひとりきりで生活するなんて信じられない」のだそうだけれど、それでもやっぱり、小さな頃から住んでいるからいろんな勝手も知っているし、あたしの優しくって楽しい家族の思い出は、ぜんぶぜんぶ三門市にあるのだ。
帰りのホームルームを終えて、カバンを持って教室を出る。部活は上下関係が面倒くさいから入っていない。だからあたしは友だちが少ない。でも人並みに友だち付き合いはしているから、一緒にお昼ご飯を食べてくれる子もいるし、放課後遊んでくれる子もいる。そのうえ一人でいるのも好きだから、全然問題ない。
「
先輩」
昇降口の前に、昼休みの後輩くんが立っていた。あたしと同じように、カバンを持って、くたくたになったスニーカーを履いて、あとはもう帰るだけみたいな感じだった。
「あ、出水の後輩くん」
「京介です」
「きょうすけくん」
「もう帰りますか?」
「うん、そうだけど」
「一緒に帰ってもいいすか?」
びっくりした。今日はじめて話したような、ついさっきまでなんの接点もなかった年下の男の子が、あたしと帰りたいだなんて。ボーダーの人って、よく分からない。たぶん仕事のしすぎで思考回路がどうかしてるのだ。でも、まわりの女子生徒のちらちらと色めいた視線を浴びて、その瞬間、あたしはちょっとだけ優越感に浸った。そして頭のうえから静かに下心が顔を出して言った。
こんなきれいな顔した男の子に誘われて、断るなんてできないでしょ。
「…べつにいいよ、どうせヒマだし。それに、あんた可愛いし」
きょうすけくんはあたしの足元を見詰めながら「ありがとうございます」と短く言った。それから、自分のことは呼び捨てでかまわないと言ったので、あたしはきょうすけと呼ぶことにした。漢字は苦手だから、どう書くのかは聞かなかった。あたしのことも呼び捨てでいいよと伝えたら、なぜかかたくなに拒まれて、結局、
さんと呼ばれることに落ちついた。きょうすけと
さん。なんだか、ちょっともどかしい。
「きょうすけってボーダーでしょ」
「そうです。なんで分かったんですか」
「だって、ほかの学年の子で出水に用があるって言ったら、だいたいボーダーの子だよ」
「なるほど…」
「きょうすけはさ、なんであたしと一緒に帰りたいの?」
「バイト先が
さんちの近くなんで」
「バイトしてるんだ」
「何個か掛け持ちしてます」
きょうすけは、うちの近くのレストランの厨房でバイトをしていること、ほかにもスーパーのレジ打ちとか、朝の新聞配達とか、いろいろなバイトを掛け持ちしているのだと言った。きょうだいが自分のほかに4人いるから、生活のために働いているらしい。そんな話を聞きながら、ボーダーの仕事もあるのに大変だなあと、ぼんやり思った。でも、そういう人生も、忙しいけど賑やかで、充実感があって楽しそう。
「あと…
さんてひとり暮らしなんですよね」
「そうだよ」
「このへんいつも人通り少ないし、毎日ひとりで帰るの危ないっすよ」
「1年のときからこうだから、慣れてるし大丈夫だよ」
「でも…」
「うん、とりあえず、ありがと」
あたしがきょうすけのほうを向いてにこりと笑うと、きょうすけはつんとした表情のまま目を合わせて軽く頭を垂れた。普段からあんまり笑わない子なのかしら。きれいな顔だけど、思っていることがよく分からなかった。
「ていうか、あたしがひとり暮らししてること、なんで知ってるの」
「出水先輩から聞きました」
「人のこと、すーぐしゃべるよねえ、出水って」
「いや、俺が聞いたんすよ」
「そうなの?」
「はい」
「なんで?」
「…」
「もしかして、あたしのこと好きなの?」
道ばたの小石を蹴りながら、冗談のつもりで訊ねた。こういうのって、年上だから簡単に言えることだ。なんでもないふうな聞きかたで、目下の者を追いつめていく。
「そうですね、好きです」
「あ、あっそう」
なんだかとてもあっさりと答えられて、こっちがひるんでしまった。この子、やっぱりよく分からない。こんなにさりげなく告白みたいなことされるの、はじめてだ。
「でもあたし、彼氏いるよ?」
「知ってます。それも出水先輩から聞きました」
「それなら」
「だから、送るだけです」
「…いいの? それで」
「いいです。むしろ
さんはいいんすか?」
「あたしはいいけど、玄関までなら」
それからあたしたちはお互いのことを少しずつ話して、歩いて帰った。ほとんどなにも知らない状態からのスタートだったので、聞きたいことがいっぱいあって、会話が途切れることはあまりなかった。学校からあたしのアパートまでの15分間を、寄り道も、手をつないだりもしないで、一定の距離を保ちながらただただ歩いた。そうして、本当に玄関まできっちり送ってくれた。
「それじゃあ」
「あ、
さん」
きょうすけがスラックスのポケットからスマートフォンを取り出して、最後に連絡先の交換をした。あたしが「今日はありがとう」と言うと「俺のほうこそ、すみません」とあやまってきたので、そんなことないよと首を振ったら少しだけ笑ってくれた。そうして、バイトがあるからと言って颯爽と歩いていった。真っ黒な髪の毛が風になびいて、きれいな横顔だと思った。
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2019.05.02