2. みかんゼリー







 あたしたちは、ひと月に2回ほど、学校からあたしのアパートまでを一緒に歩く関係になった。学年がちがうから、学校内ではほとんど話もしないし、すれちがうこともめったにない。ときどき、クラスメイトの出水や米屋からボーダーでの話を聞くくらい。それも、きょうすけはふたりと所属している部署が違うので、頻繁に話題にのぼることはなかった。

 きょうすけは、あたしの予想をはるかに上回る、多忙な男の子だった。高校生であり、ボーダー隊員──しかもA級の、玉狛支部のエース部隊だそうだ──であり、家族おもいのお兄ちゃんであり、よく働くアルバイトでもあった。くらべてあたしは、だらだらしたごく普通の高校生。ほかに肩書きなんてなにひとつない。それでも、きょうすけはあたしと一緒に歩く。歩幅を合わせて。


さんは、彼氏と一緒に帰ったりしないんすか」
「しないよ」
「電話とか…」
「電話もメールもあんまりしないなあ、毎日学校で顔合わせてるから」
「…」
「べ、べつにケンカしてるわけじゃないよ?」
「それって、仲いいって言えるんすか」
「いいってわけでもないけど…」


 高校生の男の子が付き合い始めにどんなことを考えているかなんて、だいたい想像がつく。好きな子と如何にしてセックスできるか。あたしの彼氏もそうだったし、あのときはあたしも同じだった。好きになってしまったら、もう早くセックスしたくてたまらなかった。それなのに、いざ手に入ると、とたんに飽きて、どうでもよくなってしまった。今ではやりたいときにしか連絡は来ないし、休みの日に、誰となにをしているのかもわからない。好みの音楽も、よく見るドラマも、なにもかも知らなくなった。もう興味がないのだ。付き合っているのに、他人みたい。






 彼氏から別れようと言われたのは、きょうすけと一緒に帰り始めて、3回目の日の夜だった。着信があって、おそるおそる出てみたら、いつもの、学校で挨拶するときと同じように淡々とした口調で切りだされ、少しの沈黙のあと、あたしは理由も聞かずに受け入れた。あれこれ詮索しないほうが、オトナのような気がしたのだ。涙はこれっぽっちも出なかった。

 次の日の放課後、夕飯の買い出しに行くと、レンタルショップの前で昨日まで彼氏だった男とほかのクラスの女が、ふたりで楽しそうにしゃべりながら店内に入っていくのを見かけた。ああ、そういうことか。胸の奥でもやもやしていたなにかが、すうっと消えていくのを感じた。
 ──べつにケンカしてるわけじゃないよ?
 ふと、きょうすけに言ったことを思い出した。ケンカしたわけじゃない。でも、それよりも深くて大きな溝みたいなものが、知らないあいだに出来ていて、知らないあいだに広がっていた。それだけだった。あたしはカバンからスマートフォンを取り出して彼の連絡先を消した。そうして彼とは、ほんとうの他人になった。






 別れてから1週間が経ち、あたしは風邪をひいた。
 40度近い熱が出て、膝や腰の関節がきしきしと音を立てているのがわかった。ものを考えるだけで目眩がして、起き上がるのも億劫だった。朝も昼もなにも食べずに寝てばかりいたせいで、変な時間に目が覚めた。横になっていてもとくに眠たくもならなかったので、ベッドの中で何度も寝返りをうって目を瞑り、閉じた目蓋の裏で眼球だけをきょろきょろと動かしてみた。どの方向を見ても、真っ黒な闇が広がっていた。そういえば、きょうすけの髪も真っ黒だった。


 遅れてやってきた睡魔にやっと意識を手放すころ、突然にインターフォンが鳴った。1度鳴り、やや間があって、今度は3度続けざまに鳴った。すこし苛々しつつも重たい体に鞭を打って、パジャマのまま、玄関の扉をそうっと開けた。
 立っていたのは、きょうすけだった。

「どうしたの」
「どうしたのじゃないっすよ。何度も連絡したのに返事がないから、俺、教室まで行ったんです。そしたらさん、今日風邪で欠席してるって聞いて、それで、なんか食べれそうな物をと思って、帰りにコンビニで、これ、買ってきました」

 息をきらしながら、コンビニの白いビニール袋を掲げて見せた。きょうすけがこんなふうに、1度にたくさんの言葉をあたしにぶつけたのははじめてだった。あたしはなにも言い返せなかった。
 彼の目がまっすぐにあたしを見詰めた。

「すげー心配しました」
「…ごめんね」
「でも、生きててよかったです」
「おおげさだよ」
「…入ってもいいすか」

 あたしが返事をするまえに、きょうすけは「お邪魔します」と言って、くたびれたローカットのオールスターを脱いで、玄関に揃えて置いた。片手に持ったコンビニの袋が、がさがさと揺れた。


 きょうすけは、部屋に入るなり袋の中身を取り出してリビングテーブルの上にひとつずつ並べた。ペットボトルの緑茶とスポーツドリンク、昆布の佃煮が入ったおにぎりに、みかんゼリー。あたしはベッドを背もたれのように使ってラグの上に座り、それらがきちんと整列されていくのをぼうっと眺めていた。

「なにが好きかとかわかんなかったんで、テキトーに1個ずつ買ったんすけど…」
「うん、ありがとう。でもあたし、いま食欲ないから、ポカリだけでいいよ。こんなに食べきれない」
「でもさん、その様子だと朝からなんも食ってないっすよね」
「きょうすけ」

 大丈夫だから。
 じっとりと目線を送ると、きょうすけはようやく落ち着きを取り戻したように、ラグの上に静かに腰をおろした。あたしはスポーツドリンクをコップに移してから2、3口飲んで、冷蔵庫にしまった。つめたくてあまい液体が、喉を通ってお腹の真ん中あたりで吸収されていった。


さん」
「うん」
「俺、本気で心配したんです」
「うん、ありがとう」
「それと、今日の見舞いもそうすけど…できるなら、ちゃんと彼氏としてこの部屋に入りたかったです」
「…じゃあ付き合お。いまから」
「…」
「…ごめん、いまの忘れて」
「…いえ、俺のほうこそ、さっきの、忘れてください」
「…きょうすけ、なんなの」
「…」
「ねえ、わけわかんないよ」
「すみません」

 きょうすけは呟くようにもう1度「すみません」と言った。いまにも消えてなくなってしまいそうな感じの、弱い声だった。俯いていたから、表情まではわからなかった。


「あたし体だるいから、今日はもう寝るね。せっかく買ってきてくれたのに悪いんだけどさ、きょうすけはこのあとバイトでしょ?これ、自分で食べな。それからバイト行きなよ」

 テーブルの上のおにぎりと緑茶のペットボトルを、きょうすけの前に差し出した。彼の眉がすこしだけ歪んだ。

「でも」
「いいの。食べきれないし、残すのも申し訳ないから」
「…わかりました」
「…元気になったら、ちゃんとお礼させて」
「……はい」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」


 ベッドに横たわり、肩まで布団を被って、あたしは目を瞑った。真っ暗闇の中で、きょうすけの食べるおにぎりの、乾燥した海苔の音や咀嚼音が、妙にはっきりと聞こえた。
 それからしばらくして食べ物の音やにおいが消えて、制服の擦れるような音が聞こえた。漂う空気の流れで、きょうすけがベッドへ近づいてきているのがわかった。あたしは仰向けになったまま、速くなる心臓の音を隠すように、ゆったりとした呼吸をつづけた。

さん」

 顔のすぐ横にきょうすけが肘をついた。肘をついた部分だけ、マットレスが大きくへこんで、影が降りた。

「好きです」

 あたしは息を潜めて、寝たふりをしていた。きょうすけの薄い唇が、1度だけあたしの唇にふれて、すぐに離れた。そうしていつの間にかきょうすけは部屋を出ていき、あたしは彼の唇の感触を思いながら、ふたたび眠りについた。

 夜目覚めたとき、誰もいない部屋を見渡してすこしだけ泣いた。テーブルに置き去りにされたみかんゼリーはすっかりぬるくなっていて、半分も食べられなかった。







≪ 1 | back | 3 ≫

2019.05.06