3. ナポリタンとニルギリ、ごめんね







「きょうすけ」


 他学年の教室の前を通るのは、いつもすこし緊張する。
 賑やかな廊下を進んでいくと、教室の後方に見慣れた彼の姿があった。一緒に歩くときはだいたい下駄箱のまえか校門の横で待ちあわせをしていたので、あたしが彼の教室まで行くのははじめてだった。きょうすけは案の定おどろいて目をまあるくさせた。

さん、どうしたんすか」
「おむかえにきたよ」

 教室にいたほかの1年生があたしを見てなにやらこそこそと話をする中、ちいさく「カバン取ってきます」と返事をした彼の顔は喜んでも悲しんでもいなかったけれど、かすかに頬が赤らんでいるのが見えた。相変わらずきれいな顔だなあと思った。


「ごめんね、突然教室まで行ったりして」
「全然、大丈夫です」
「今日はバイト?」
「いや、今日は夜から防衛任務で…」

 風邪から復活したあたしは、きょうすけがお見舞いに来てくれたあの日からずっと、罪悪感に苛まれていた。彼に、ひどいことを言ってしまった。軽い乗りで付き合おうと言って、彼を困らせてしまった。せっかく気を遣って食べ物や飲み物を買って、わざわざ部屋へ来てくれたのに、なにもかも要らないふうな態度をとってしまった。挙げ句の果てには彼を見送りもせず、きちんとお礼を伝えることもできずに、寝たふりをした。

 サイテーだ。


「今日は、きょうすけにお礼がしたいの」

 防衛任務のまえに、あたしの部屋でお茶しない?
 言ったあと、あたしは完全に自分の都合しか考えていないこの誘い文句にまた後悔した。なんでこんなにも自分勝手な言いかたしかできないんだろう。あたしも部活やボーダーに所属していたら、少なくとも今よりは協調性というものを身につけられたかもしれない。
 となりを歩くきょうすけからなんの返事も聞こえてなかったので、汗ばむ手を握りしめ、ゆっくり彼のほうへ目をやると、彼は顎に手を添えてなにかを考えていた。

「それなら、一緒に夕飯食べませんか」
「夕飯?」
「そうです。さんちのキッチン貸してください」
「はあ…」
「メシ食って、お茶飲んで、ちょっと話しましょう」

 きょうすけがいいことを思いついたと言わんばかりに目を輝かせ、ぺらぺらと話しだした。あたしは彼の話についていくので精いっぱいだった。話を聞きながら、彼の足どりがちょっとだけ軽くなったように感じた。

「バイトで調理もやってるんで、夕飯は俺が作ります」
「それだとお礼の意味がなくなっちゃうよ」
「そんなことないっすよ」

 なんだかあたしが思っていたのと随分違う方向に進んでしまったけれど、彼のちょっと楽しそうな横顔を見ていたら、これはこれでいいかと納得した。きょうすけはあたしのほうへ振り向いて、なにか食べたいものはないかと訊ねた。


「食べたいものかあ…」

 あたしは遠くを見詰めて、自分の好きな食べ物のことを考えた。
 ハンバーグにカレーライス、オムライス、クリームシチュー。
 あたしは食の好みに関しては、きわめて子どもじみていた。どれも、幼い頃お母さんがよく作ってくれたメニューばかり。ハンバーグには上にチーズや目玉焼きが乗っていて、カレーは子どものあたしでも食べられるようにいつも甘口だった。オムライスはチキンライスを薄く焼いた卵で包んで、その上からケチャップであたしの名前が書いてあった。クリームシチューには真っ赤なタコさんウインナーがたくさん入っていた。どれもひとりぶんを作るにはすこし面倒なものだった。


「きょうすけは、どんな料理が得意なの?」

 選びきれずに訊ねてみると、彼はイタリアンが得意だと言った。
 イタリアンと言われてすぐに思い浮かんだのは、ケチャップソースのたっぷり絡んだナポリタンだった。これも幼い頃、家族で買い物に出かけたときに、デパートの中にある洋食屋さんでよく頼んで食べたものだった。

「それなら、ナポリタンがいいなあ」

 あたしがリクエストをすると、きょうすけは「それは、イタリアンとはちがう気がする…」と言った。それでもあたしの家にパスタやケチャップはあるか、冷蔵庫の中の野菜はなにが残っているかなどと聞いてきたから、どうやらナポリタンは承認されたようだった。パスタとケチャップは家にあると答えて、使えそうな野菜は玉ねぎくらいしかないと伝えた。

 それからあたしたちは、途中でスーパーに寄ってナポリタンに入れるピーマンとウインナー、粉チーズを買った。はじめての寄り道だった。






 あたしが部屋の鍵を開けると、きょうすけはこのまえと同じようにくたびれたスニーカーを揃えて置いた。あたしもそのとなりに同じようにローファーを並べて置いた。彼のスニーカーはあたしのよりもひとまわりくらい大きかった。

さん、エプロンあったら貸してください」

 きょうすけは制服の上着を脱いで、シャツのボタンをひとつ外した。あたしがいつも使っているえんじ色のギンガムチェックのエプロンを手渡すと、黙ってそれの紐を結んだ。

「小さくない?」
「大丈夫です。トマトソースは服に付くと厄介なんで」
「そうだね」

 女性用のエプロンを身につけているのがちょっとおかしくて、でもかわいかった。写真におさめたくてスマートフォンのカメラを向けたら、「やめてください」と一瞥された。


 きょうすけは、とても手際よくナポリタンを作った。包丁の使い方は、あたしなんかよりもずっと上手だった。いままで料理をしてきた回数や時間が、彼のほうが圧倒的に多いのだろう。あたしはお皿の上に美しく盛りつけられたナポリタンをじっと見詰めた。パスタの1本1本にケチャップソースがしっかりと絡んでいて、スライスされたピーマンとウインナー、しんなりした玉ねぎがバランスよく混ざっている。部屋を覆う、ケチャップのかすかに酸味のきいたにおい。

 おいしそう。

 あたしが早く早くと手招きをすると、きょうすけがエプロンを脱いで、流し台の縁に畳んで置いた。


「いただきます」

 このまえとおなじように、リビングテーブルを囲んで座る。向かい合わせに座るとテレビが見えなくなってしまうから、となりに並んで座った。テレビでは、明日の天気やローカル番組のロケ企画みたいなものが放送されていた。とくにおもしろくはなかったけれど、賑やかな音があるだけで、なんだか大勢でテーブルを囲んでいるような気持ちになった。


「おいしい」
「…」
「ほんとにおいしいよ」
「…それなら良かったです」
「これから防衛任務なのに、ご飯作ってもらっちゃって、なんかごめんね」
「俺が好きでやってるだけっすから、気にしないでください」
「…きょうすけは、なんであたしにこんな優しくするの」
「それは…」
「このまえさ、キスしたでしょ」
「起きてたんすか、あのとき」
「ちょっとね」
「そうですか…」

 きょうすけは手で口元を覆った。俯いて、またなにか考えているようだった。
 あたしは、高校生の男の子がどんなことを考えているかなんて、充分わかったつもりでいた。


「今日もキスしたい?」
「いや、あの」
「それとも、やる?」

 そうして、あたしはまた、彼にひどいことを言ってしまった。部屋へ招いたのは、ほかでもないあたし自身なのに。
 あたしはずっと、きょうすけの優しさが、うれしくもありこわくもあった。いつかあたしのことを幻滅して、飽きて、捨ててしまうんじゃないかと思うと、どうしようもなくこわくなる。それならば早く彼の望んでいるものを与えて、終わりにしたい。


「俺はそんなこと、思ってないです」

 きょうすけは、キスとかセックスとかいう行為のためにこんなことをしてるんじゃないと言った。そして、となりにいるだけでいいとも言った。あたしはもう随分まえからそういったことを一緒くたにしか考えられなくなっていたから、最初は彼の言葉の意味がよくわからなかった。

「さっきも言いましたけど、一緒に帰ったりメシ作ったり、ぜんぶ俺が好きでしてるだけなんです」
「…」
「迷惑なら、やめます」
「…お茶いれてくる」
さん、俺、さんのことが好きなんです」

 さんは、俺のこと好きですか。
 そう聞かれて、あたしはなにも言い返せなかった。逃げるように立ち上がり、流し台でお湯を沸かすあたしの背中に向かって、きょうすけが「返事はいつでもいいです」と放った。彼の言葉が淀みなく心に刺さって、いままで自分が抱えていた疑念や邪な感情が馬鹿らしく思えてきて申し訳なくなった。


 あたしのいれたニルギリの紅茶を飲みほして、きょうすけは防衛任務に行ってしまった。帰り際、玄関口で「今日、教室まで迎えに来てくれたの、嬉しかったです」と言われ、あたしはひとりでお皿を洗いながら、彼の言葉を何度も何度も反芻した。







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2019.05.08