無声動画
そして恋がはじまってゆくの対の話







 良介がF女学院高校の音楽科の女と付き合っているらしいという噂が、どこからともなく舞い込んできた。嘘か本当かも知れないそれに、わたしの心はひどく掻き乱された。女子高生の情報網は、まるで蜘蛛の巣のように至る所に張り巡らされていて、その伝達スピードは恐ろしく速い。指先は無意識にスマートフォンの画面を弾いていた。
 インスタグラムを開き、検索画面から良介のアカウントを辿る。あまり更新のない彼のアカウントを眺めるのが日課のようになっているので、わざわざアカウント名を入力しなくても、つねに検索履歴の上位に表示される。前回のU-18日本代表戦での劇的なゴールから一気にフォロワー数を増やしたものの、小心者のわたしはいまだに彼をフォローすることができない。彼のことをずっと見ていたいのに、それを知られたくないのだ。

 彼のアカウントには、このあいだの選手権の写真から、新たにひとつの短い動画が更新されていた。地面を見下ろすようなアングル、映し出される足元、履き潰されたローファー。梁山の制服だった。歩きながら撮影したと思しきそれは、がたがたと揺れ、焦点が定まらず、音声もなかった。添えられた文章は[久しぶりの地元!]。
 たった数秒のこの動画を繰り返し見ていると、手元になにやら大きめの冊子と紙袋を持っているのが分かった。クリーム色の本と、白い紙袋。よくよく目を凝らして見ると、本の背表紙にはショパン、エチュードの文字。
 あっ、と思った。
 事実を確かめるためにこのアカウントを覗いて、それなりに覚悟はしていたはずなのに、いちばん見たくないものを早々に見つけてしまった。うまく呼吸できないまま、下部のコメント欄をスクロールしていく。

 ・おかえりなさい!
 ・いつも見てます。
 ・応援してます!
 ・好きです(語尾にハートの絵文字つき)
 ・このあいだの選手権見ました、負けちゃったけどかっこよかったです!
 ・日本代表戦のゴール痺れました! これからも頑張ってください!
 ・地元でゆっくり体を休めてください

などなど、たくさんの励ましや賞賛、告白めいたメッセージのほか、

 ・碇屋くん、ピアノ弾けるんですか?
 ・音楽の才能はお母さん譲りなんですね!
 ・ピアノ弾いてください(わくわくした顔文字とともに)
 ・弾いてるところ見たいです…!

 わたしのように、画面の端に映り込んだそれを楽譜だと気づいた者もいたようだった。けれどもその楽譜はあくまで良介自身或いは母親のものとされ、ピアノ演奏があたかも彼の特技であるかのように捉えられていた。
 わたしもこんなふうに考えられたらよかった。
 良介と親しくなるということは、ただのファンではいられなくなるということだった。わたしと良介はクラスメイトなのだ。お互いの連絡先を知っていて、ブスやバカと言い合うことのできる友だち。頭や肩を小突いて、体に触れることのできる、ただの友だち。


「良介ぇ」
「あ?」
「あんたピアノ弾けんの?」
「は? 弾けるわけねえだろ」

 セーターに絡んだ毛玉を引っ張りながら乱暴に質問を投げつけると、鼻で笑われ跳ね除けられた。机の上に伏せる良介は、すこし眠そうだった。

「あんた、彼女できた?」
「っぜーな」

 彼が肯定も否定もせず暴言を吐くとき、それは肯定と同じことだった。色素の薄い髪の毛の隙間から、赤く染まった耳が見え、わたしは漸く確信した。

「彼女、ピアノ上手?」
「……」
「おーい、無視かよ」
「黙れブス」

 わたしは思いきって、あの動画を見れば丸分かりだと言おうとした。けれども、やっぱり言えなかった。沈黙の中、隣りの席で突っ伏したままわたしのほうを一切見ない彼の表情を、なんとなく察した。



 いつだったか、休み時間に友だちと他愛ない会話をしていて、ふと良介の話になったことがある。すでに彼はプロチームへの加入が決まっていて、代表の遠征のために欠席が続いていた。「3年生にもなって、女子に対して免疫なさすぎるよねえ」と1人の子が言って、面白がって頷くと、もう1人がわたしに向かって言った。

「でもさ、とはフツーにしゃべるよね」
「そう?」
「確かに、言われてみればそうかも」
「もしかして碇屋くん、に気があるんじゃない?」
「いや、それはないよ」

 わたしは片手を左右に小さく揺らして、苦笑いした。あいつは恐らくわたしのことを異性と認識していないから平気で話せるのだと伝えて、そして、盛大に嘯いた。

「それに人のこと平気でブスとか言うヤツ、彼氏にしたくないなあ」

 わたしも、良介や良介の彼女のように、なにかひとつでも必死になれるものがあったらよかった。密やかな恋のような、こんな曖昧なものではなく。



「良介」
「……」
「…死ね」
「はあ!?」
「うそ、ごめん。あはははは」
「…意味わかんねえ」

 良介は顔を上げ、大きく息を吐いた。欠伸にもため息にも見えた。

「早く春、来ないかなあ。ねえ、良介」
「黙ってりゃ来んだろ」
「そうだね」

 知ってる? わたし、あんたのことずっと好きだったの。
 高校3年の冬、わたしの恋が静かな終わりを迎えた。音もなく、痛みだけを残して。







2019.05.06